一緒に創ろうこれからの学校

四番丁小学校の可能性 Vol.1

平成16年6月

一緒に創ろうこれからの学校

四番丁小学校の可能性 Vol.1

目 次
発行によせて

はじめに

Ⅰ 提言 四番丁小学校の可能性

1.保育施設との複合化を行う

2.学校選択制(通学区域の弾力化)を導入する

3.補助制度の有効活用を図る

4.学校を核にした地域コミュニティを再生する

5.図面

Ⅱ 学校をめぐる現在の状況

1.学校選択制(通学区域の弾力化)について

2.学校施設の複合化について

3.補助金について

①学校の適正規模と国庫補助金

②他の補助制度

4.まちづくりと学校・中心部の地域性

Ⅲ 四番丁小学校の歴史と伝統、その活動と取り組みの現状

1.歴史と伝統

2.その活動と取り組みの現状

Ⅳ メッセージ

おわりに

四番丁小学校同窓会長 鹿庭 幸男
四番丁校区連合自治会長 谷 正弘
四番丁小学校育友会長 萩本 豊

平成16年2月28日に開催された四番丁小学校「菊池寛まつり」は、今年で27回目を数えます。毎年一年間の総合学習の成果がここで発表されますが、今年も子どもたちの演技は、すばらしいものでした。菊池寛をはじめ、三木武吉、成田知巳、十返肇、向田邦子等、郷土の誇りとする方々を輩出した伝統ある四番丁小学校の教育は、今も脈々と受け継がれています。

しかし今その教育の灯が消えようとしています。平成15年8月20日、高松市中心部小中学校適正配置等審議会は、高松市中心部小中学校の統合についての中間報告を提示しました。それによると四番丁小学校は、日新、二番丁の各小学校と統合するとされています。四番丁小学校の教育を知る卒業生、地域住民、在校生父兄の間では、当事者不在で提示されたこの計画についてとうてい納得できないとの意見が大勢を占めています。在校生父兄からなるPTA組織である育友会は、昨年9月に総会で決議された意見書を提出、同時に同窓会、自治会、育友会は存続を求める署名運動を展開し、昨年12月に9,113名の署名を提出しました。

私たち当事者が意見を言えば、多くの場合「地域エゴ」というレッテルを張られてしまいます。しかし、最も利害をこうむるのは私たちです。その当事者抜きで進められている計画を、ただ傍観していることはできません。今回統合対象となった他の学校においても同様の主張がなされています。

次代を担う子供達に対して私たちは何をなすべきなのでしょうか。これを機会に、今一度学校について考え直し、将来にわたって悔いを残さないよう、諸方の意見を出し尽くし、議論を重ねなければいけないでしょう。その第一歩として、私たちはこれからの学校について、ここに提言をさせていただきます。

はじめに

平成15年8月、高松市中心部小中学校適正配置等審議会より高松市中心部小中学校の統廃合についての中間報告が提出された。この中間報告は私たち地域住民、PTA、同窓生にとって学校の在り方を深く考えさせられる契機となった。私たちは議論を重ねるにつれて統廃合は最後の手段であって、そこに至る前にもっとなすべきことがあるのではないだろうかという疑問を抱くに至った。そこで私たちは限られた情報の中ではあるが、四番丁小学校をモデルとして高松市中心部の小学校の在り方を考えてみた。私たちはここで述べている考え方が決してベストであるとは思っていない。これはあくまでも議論の叩き台であり、行政と地域住民、PTA、同窓生などの関係者が一体となって一からこの問題を考える場を設置していただき、全国に誇れるような高松の教育を作り上げていくことが私たちの目標であり、次代を担う子供達に対する私たちの責務でもあると考える。しかし現実にはそのような場は設置されておらず、私たちは議論に参画させていただいていない。そこでこのような提言を行った次第である。

Ⅰ 提 言 四番丁小学校の可能性

私たち地域住民、PTA、同窓生は以上のような学校をめぐる現在の状況を踏まえた上で、学校施設の複合化、学校選択制(通学区域の弾力化)の導入を前提にした四番丁小学校の可能性を提言する。

1.保育施設との複合化を行う

四番丁校区の特色は、校区内にオフィス街・商業地・官公庁を抱えることである。その特徴を踏まえたとき、働く女性を支援する施設として保育施設の必要性が考えられる。現在、高松市内において四番丁校区のみ公立の保育所が設置されていない。学童保育まで守備範囲にした保育施設を校舎敷地内に整備することは、後に述べる学校選択制(通学区域の弾力化)の導入とセットで考えることにより大きな効果が得られる。近隣の会社や官公庁に勤務する子育て途上の女性が学校選択制(通学区域の弾力化)を利用して子どもを四番丁小学校に就学させる。子どもは、放課後も校舎敷地内に整備された学童保育施設にて活動することができる。就学前児童がいる場合は、学童保育施設に併設された保育所を利用することもできる。女性が子育て中も安心して社会進出でき、少子化の傾向にもブレーキをかけることができるという社会的に極めて大きな意義を有するものである。中心市街地の空洞化、ドーナツ化現象など地域経済社会の変化に伴い発生した児童生徒数の地域的な不均衡の問題と少子化の進展にもかかわらず働く女性の増加に伴い年々保育所の入所希望者が増加し待機児童が発生しているという2つの問題は、四番丁小学校の保育施設との複合化により同時に解決することができる。なお運営については近隣の企業内託児施設を複数の企業共同で四番丁小学校に設置するという方法も考えられる。

2.学校選択制(通学区域の弾力化)を導入する

学校選択制度のパターンとしては、域内全校の中から選択する(完全自由型)、域内を複数のブロックに分けそれぞれから選択する(ブロック型)、従来の学校とそれに隣接する学校の中から選択する(隣接校型)が考えられるが、当地区の場合は学校施設の複合化を踏まえ、完全自由型の導入が望ましいと思われる。ただし適用対象学級は1学年1学級とし、希望者多数の場合は抽選とする。新入生には学校選択制度、在校生は転入学申立制度により対応するが、施設その他の事情との兼ね合いの中で、新入生から徐々に適用していくこともある。なおこの施策を展開するに際しては、保護者、児童生徒が充分な情報をもって学校を比較・検討できるように、その運営方針や教育内容などについての情報開示が必要である。

学校は公民館活動、地区体協など地域コミュニティの拠点でもある。学校選択制(通学区域の弾力化)は学校と地域の結びつきを弱めるという懸念もあるが、一方で居住地域にかかわらず開かれた地域活動に参加することができるというメリットもある。また本来義務教育は機会均等であるべきものであり、学校選択制はその観点からも推奨されるべきものである。義務教育といえども一定の条件の下で競争原理を導入することは、各学校の努力をうながし、ひいては高松市全体の公的教育のレベルアップにもつながるものと期待することができる。

3.補助制度の有効活用を図る

今回の統廃合問題の発端は、耐震化に伴う校舎改築問題であるが、その背景に財政問題があることは明白である。後述の通り現状地での改築の場合は統合した上での新築よりも国の基本補助率は低い。しかしながら、特色ある学校施設作り、子ども達の未来を拓く学校施設整備、地域・学校連携施設整備などを組み合わせることにより補助金は加算される。また複合施設化とする場合、併設される施設に対しても助成が考えられ、それらをすべて加算したものが改築のための補助金総額となるものと思われる。このように知恵を絞ることにより少しでも市の財政負担を軽減させることができる。

4.学校を核にした地域コミュニティを再生する

学校、地域、保護者などが一緒になって新しい学校づくりを考えることによって安心して住み続けられる地域を作ることができる。学校と地域住民は世代を超えた交流やふれあいを持ち、子どもたちを温かく見守る目と学校を支援しサポートしていこうとする気持ちが生まれることにより、学校を核として地域のコミュニティを再生することができる。この地域での多世代居住空間の創設は職住近接を可能とし、若い世代が商店街などに居住することにより、まちに愛着を持ち次代を担っていこうとする子どもたちが育ってくる。

5.図面

平成12年度には香川県建築士会において「多世代交流の場としての小学校の再構築」というテーマで四番丁小学校校舎敷地をモデルにした設計コンペが行われ、保育施設との複合化を提案した作品が賞を得ている。ここでは現行の校舎敷地を利用して上記施設を併設した場合の図面を作成した。なお本計画案の著作権は提言作成者に帰属する。

周辺状況

本校区は、四国の玄関であり観光都市として知られた高松市の中核に位置する。北部は高松港と高松駅を中心とした海岸沿い一帯で、各種交通機関の発着地で、此れに連なる商業施設・事務所ビル・が林立する。また、此処に続く一角は、官公庁・司法関係の諸施設・更には百貨店も有り、その南には商店街が形成され、市中第一の繁華街となっている。また、中央通沿いには四国の管理中枢の機能としての上場企業の支店が多く有り、市役所、県庁など行政の施設も多く存在する。西側は城下町の面影を僅かに残した番町筋の住宅街が広がり東側の商店街とのコントラストを現出している。

近隣地図

計画案 概要

本計画は、これまで述べてきた記述に則り現在の四番町小の敷地に計画をしたものである。

敷地面積 13.190m2

用途地域 商業地域 建蔽率 80% 容積率 800%(許容)

用途 小学校+保育所 各学年 2クラス(30名)×6 保育所 4クラス+一時保育室

構造 鉄筋コンクリート造一部重量鉄骨造 3階建て

建築面積 2746.8m2 (建蔽率 20.92%)

延床面積 4075.3m2 (容積率 30.90%)

敷地は、四方を市道に囲まれており、北側道路を児童、乳幼児のアプローチ導線とする。

建物配置は、北側に体育館と屋内プールを配置し、その南側に各教室、諸室を配置する。

高学年と低学年を別の導線とし、また、保育所は、東側1階に配置する。

また、一時保育室も設け、学童保育にも対応する。1、2階は、小学校部分とし、3階は

学校開放対応を考慮し、公民館としての機能も対応できるものとする。

美術室、会議室、調理実習室、音楽室、理科室、図書室、集会室等の特別教室は、

住民の使用も考慮するものとする。また、屋内プール、体育館も一般開放を考慮し、

地域住民の健康増進に活用する。

構造は、新耐震基準に則り計画をし、避難場所としての対応も考慮する。



外観イメージ写真
敷地北側に体育館、屋内プール、保育所を配置し、南側は運動場とし学校開放にも対応す


プレイルーム内部透視図

保育所部分の各室は天井の高いプレイルームに面し、乳幼児の豊かで楽しい遊びに対応する事を考慮する。





オープンスペース透視図

各教室に隣接してオープンスペースを設け、多様な授業に対応できるようにすると共に上下の学年の交流を図れるように考慮する。
一部吹抜を設け豊かな空間とする。


Ⅱ 学校をめぐる現在の状況

前章の提言は、学校をめぐる現在の状況をふまえた上でなされたものである。以下にその概略を示す。

1.学校選択制(通学区域の弾力化)について

平成13年12月総合規制改革会議は、その第1次答申において重点6分野の一つである教育における規制改革推進の一環として以下のような内容を答申した。

(1) 高等教育における自由な競争環境の整備

(2) 高等教育機関によるキャリアアップの充実

(3) 高等教育に対する公的支援の在り方の見直し

(4) コミュニティスクール導入のための法制度整備に向けた実践研究の推進

(5) 小中学校設置基準の明確化と私立学校参入促進要件の緩和

(6) 初等中等教育における評価と選択の促進

このうち初等中等教育関連の内容として、「社会・経済・文化におけるグローバル化や国際的競争の進展の中で質の高い教育を提供し社会のニーズに応える優れた人材を提供することが不可欠であり、初等中等教育においては多様化を進め、需用者による選択と参画を確保することが我が国の教育全体の質的向上に結びつく」として学校選択制(通学区域の弾力化)に関わる答申を行っている。

現行の通学区域は「学校教育法施行令」第5条第2項において、「市町村の教育委員会は当該市町村の設置する小学校または中学校(略)が2校以上ある場合においては、前項の通知(入学期日の通知)において、当該就学予定者の小学校または中学校を指定しなければならない。」との規定に準拠して市教育委員会が指定しているものである。

しかしながらこのことは初等中等教育における画一化を推し進め、また一方では少子化に伴う児童生徒数の減少、中心市街地の空洞化、ドーナツ化現象など地域経済社会の変化に伴い児童生徒数の地域的な不均衡をもたらしている。そしてこれこそがまさに今回、適正配置問題が俎上にあがった発端でもある。

2.学校施設の複合化について

高松市小中学校適正配置等審議会の前身ともなった高松市校舎等改築検討懇談会ならびに高松市校舎等改築基本構想の報告書は、以下のような理由から学校施設の複合化の必要性について論じている。

(1) 学校・家庭・地域社会の連携

これからの学校は家庭、地域社会と一体になって児童生徒を育てる学校として、家庭、地域社会とともに学校教育を展開していくという視点を持つことが大切である。このため学校施設は学校教育施設としての機能を確保するだけでなく家庭や地域社会とともに児童生徒を育てる場、交流の場として機能していくことが求められており、学校の中で児童生徒と地域住民とがふれあい、心を通わせる場や様々な活動をする場が望まれる。

(2) 生涯学習社会への対応

学校は地域住民にとって身近な学習施設であり、ITなどその教育機能や施設・設備を提供することにより、地域の人々の学習需要に応え、積極的に開かれていくことが望まれる。

(3) 地域のコミュニティ活動等の支援

地域の人々の様々な活動や交流の場として学校開放を推進するとともに、他の公共施設との緊密な連携を図りながら地域のコミュニティ活動を支援していくことが大切である。

また同報告書は考えられる具体的施設として以下のような施設を挙げ、各学校の地域性等を考慮しつつ整備計画の策定段階から、学校関係者のみならず複合施設の種類に応じ地域の関係者との意見交換を十分に行い、共通理解を得つつ進めることが大切であると述べている。

(1) 学校が児童生徒の学習・生活の場であることを考慮した場合

学校教育施設同士、児童館・学童保育施設等の児童生徒と関わりのある施設、

学習・スポーツ・文化活動施設等の学校施設と機能を共有する施設

(2) 学校が地域の身近な公共施設であることを考慮した場合

地域のコミュニティ活動等を支援する施設

さらに同報告書は学校施設の複合化について先進地の事例を分析する中で他都市では生涯学習センターやコミュニティセンター等との複合化事例が多いが、その機能は公民館の機能と類似している。高松市においては既に校区毎に公民館が設置されているため、当地区における状況は異なっている。学校が児童生徒の学習・生活の場であることを重視し、児童生徒と関わりの深い施設、学習環境の向上や健全育成につながる施設との複合化が優先されると結論づけている。

3.補助金について

①学校の適正規模と国庫補助金

学校施設は、児童生徒の学習・生活の場であると同時に、災害時の地域の人々の緊急避難の場としての役割を持つ。しかし現状は、耐震性の問題や、老朽化によって改築が必要な校舎が占める割合は大きく、これらの校舎の耐震補強や改築・改修等を順次進めていく必要に迫られている。特に、耐震化は最優先課題であり、これを促進するために、校舎の新築または増築に要する経費の一部が各地方自治体に対して国から補助される。

高松市も多くの小中学校校舎等が改築時期を迎え、平成10年12月25日に高松市校舎等改築検討委員会が、平成12年8月14日には校舎等改築検討懇談会が設置され、校舎改築に対して議論を重ねて、平成13年11月30日には検討懇談会が最終報告書を提出し、平成14年4月26日には、検討委員会によって高松市校舎等改築計画基本構想が策定された。この基本構想では、学校の適正規模について論じられており、高松市立小中学校の適正規模は、小学校、中学校とも12~24学級と規定されている。校舎等改築の議論の俎上に学校適正規模の問題があがるのは、教育的見地からだけではない。基本構想では触れられていないが、改築にかかる費用と国からの補助金制度の関係も大きな理由であると考えられる。以下、国からの補助金という観点から学校の適正規模をみてみよう。

義務教育諸学校施設費国庫負担法、同施行令、同施行規則、公立学校施設整備費国庫補助要項等で、公立の義務教育諸学校の建物の建築整備に要する費用の一部を国が負担することについて規定されているが、煩雑になるので文部科学省ホームページに整理されており、これより抜粋して資料として提示する。

現在の小中学校が現状のままで校舎を改築する場合には、前掲ホームページに危険改築または不適格改築として挙げられている補助制度が適用されると考えられる。構造上危険な状態にある義務教育諸学校の建物について、その改築に要する経費の一部を国が負担(補助)するもので、費用の1/3が助成される。助成金は、学級数に応じる必要面積を基準として計算される。従って、改築に当たって国庫の補助を受ける場合、学級数は重要な要素となる。

これに対して、新築・増築の場合は、補助率が1/2になる。公立の小学校及び中学校を適正な規模にするために統合しようとする場合も、この助成が適用される。義務教育諸学校施設費国庫負担法施行令第3条には、適正規模は、学級数がおおむね十二学級から十八学級、統合する場合は十二学級から二十四学級であると規定されており、奇しくも基本構想で打ち出された高松市立小中学校の適正規模に一致する。現状のままで改築するより、統合して施行令に規定されている適正規模にして新築する方が、補助金の面からは明らかに有利になるのである。

②他の補助制度

統合を行わずに現状のままで改築する場合に適用される補助率は1/3であるが、改築後の学校のあり方によって、別の補助が適用される場合がある。これらを利用すれば、より多くの補助が得られる可能性があるので紹介する。

(1) 特色ある学校施設作り

創意と工夫をこらし、地域の実情に沿った特色ある学校施設づくりを推進するために、学校施設の全体を整備する事業について、基本設計費に対して補助が受けられる。さらに、多様な学習形態に対応する学習スペースとして多目的スペースを設ける場合、学級数に応ずる校舎必要面積に対し、小学校においては18.0%、中学校においては10.5%を上限として補助対象の資格面積が加算される。

(2) 子ども達の未来を拓く学校施設整備事業

新たな教育課程に対応できる創意工夫をこらした学校づくりやコミュニティの拠点として地域に開かれた学校づくりなど、多様な学習需要等に対応できる学校施設の整備に対して、必要面積の20%の範囲内において、必要と認められる面積が加算され、また予算の範囲内において、本事業の趣旨に基づいた整備を行うために必要と認められる経費が加算される。対象事業には、

・新たな教育課程に対応した学校施設
・地域に開かれた学校施設
・複合化に対応した学校施設
・環境を考慮した学校施設(エコスクール)
・地域の特色を生かした学校施設が挙げられ、加算対象施設は、
・児童生徒の多様な学習方法とに対応するために必要となる面積及び経費
・地域の持つ教育力を生かした学習活動を実施するために必要となる面積及び経費
・地域の人々が生涯学習活動等に利用するために必要となる面積及び経費
・複合化施設との連携をはかるために必要となる面積及び経費
・環境負荷の低減を図るために必要となる面積及び経費
・地場産業等を活用するために必要となる面積及び経費
・その他、本事業の趣旨に基づいた整備を行うために必要と認められる面積及び経費となっている。

(3) 地域・学校連携施設整備事業

学校・家庭・地域社会が連携協力することの重要性に鑑み、地域の持つ教育力を生かした学習活動や地域の生涯学習活動等を実施するための場、また、高齢者をはじめとする地域の人々の交流の場などを備えた、地域コミュニティの拠点としての学校施設の整備に対して、費用の1/3が補助される。補助の対象となる施設は以下の通りである。

ア. 地域・学校連携促進型・・・学校・家庭・地域社会が連携協力するための情報提供や連絡調整の場、PTA活動の拠点となる場、さらには、地域の人々がボランティア活動の拠点とする場等を持つ施設を整備する事業。
イ. 体育施設開放促進型・・・体育施設の開放を促進するとともに、地域ぐるみでたくましい心豊かな児童生徒を育成することに役立つよう、屋内運動場や会議室や更衣室等を持つ施設を整備する事業。
ウ. 複合促進型・・・学校施設の複合化を促進するとともに、地域の生涯学習活動等の拠点となるよう、他の文教施設や福祉施設等と有機的な連携を図るために必要となる多目的ホールや展示ホールなどの交流スペース等を持つ施設を整備する事業。

複合化の対象施設は、

○文教施設
・社会教育施設(公民館、図書館等)
・社会体育施設(体育館、水泳プール等)
・文化施設・文化財保護施設(美術館、歴史資料館等)

○福祉施設
・高齢者福祉施設(老人デイサービスセンター、養護老人ホーム等)
・児童福祉施設等(保育所、児童館、放課後児童クラブ施設等)
・身体障害者厚生援護施設等(身体障害者福祉センター、・身体障害者通所授産施設、在宅知的障害者デイサービス・センター、知的障害者授産施設等)

○その他
・学校施設と複合化することが適当と認められる施設

である。

以上は、学校としての補助金であるが、複合施設化とする場合、併設される施設に対しても助成が考えられ、それらをすべて加算したものが改築のための補助金総額となる。

4.まちづくりと学校・中心部の地域性

①高松市における小学校区

高松市の市民組織の多くは小学校区単位に組織されている。自治会、婦人会、子ども会育成会、保健委員会、等など。小学校区が一つのまちづくりの単位として何年も続いて来ている。
そして今また、これを単位に地域コミュニティの再生の必要性が言われ、「共に支えあう地域社会づくり」を目指す地域福祉計画が始まろうとしている。同じ小学校に自分も通い子どもたちも通った、顔も見知った人々が徒歩圏の地域の中で互いに支えあって暮らしていく、安心に住み続けられる地域をつくろうとしている。
小学校区に一つずつつくられている地区公民館は全国的にもその充実が言われ、生涯学習の場として、多くの地域の人たちの生きがいや健康づくり、交流の場としての役割を担っている。このようにして小学校区からまちづくりの芽が拡がっていくわけである。

②中心市街地における小学校

○校区の居住人口の減少

昭和50年頃より自動車社会の到来によって、町の郊外化が進み、車で移動できる郊外を生活の場とする人々が拡がってきたが、中心部商店街の人たちも例外ではなく、生活の場を郊外に持ち、商店と別に居住するようになってきた。そのことが中心部の人口の減少のきっかけともなったと、商店街の方は自戒を込めて語っている。四番丁小学校も全校生徒3000人を超えたマンモス校から徐々に生徒数は減少し、何度かの廃校のうわさはそれに拍車をかけたとも考えられる。

○高松市中心市街地の活性化計画

平成10年、国において「中心市街地における市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進に関する法律」が成立し、高松市においてもこれを契機にこの法律に基づいて「高松市中心市街地活性化基本計画」策定された。そこでは、中心市街地における市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進が図れるよう、行政・市民・民間事業者が一体となり、高松市の顔でもある中心市街地において、各種の事業・施策を連携させながら、街なかの総合的な再生・再構築を推進し、活力と魅力ある中心市街地の形成を目指すと明記されている。「高松市中心市街地活性化基本計画」は前述の考え方から、機能集積が高く、その再整備により高松市全域、さらには広域的な波及効果・相乗効果をもたらすことが想定される中心市街地の区域を設定し、都市基盤整備、商業振興、居住環境さらには公共公益施設の総合的かつ体系的な整備を推進していくための計画であると位置づけられている。現在(平成7年)高松市の人口が横ばいに対し、中心市街地の人口は減少を続けており、0~14歳までの人口割合は10.2%(市全体は16.3%)また65歳以上は22.6%(市全体は15.6%)と少子高齢化が進行している様子がうかがえる。
まちづくりを担うのはそこに住む人たちである。そこに生まれ育った子どもたちは地域の文化や事業・活動の中で自分たちの町を愛する心を育てていく。中心市街地の活性化を担う人材は、地域に生まれる子どもたちである。高松市中心市街地の設定区域の中には、四番丁小学校、新塩屋町小学校の二つの小学校があるが、どちらも長い歴史をもった、地域に密着した小学校である。
前述の「高松市中心市街地活性化基本計画」によれば、『住みやすい居住の再整備や促進』のため、多様な層を対象とした、都市型住宅の供給の促進、都市型サービス機能の立地促進や生活支援公共施設の整備が検討されている。子どもを持つ若い年齢層では、安心して子どもが近くの小学校に通える環境が求められるが、また職場の近くでの幼稚園や保育所などの整備も、男女が同じように働く機会の増えた現在での必要な支援でもある。中心市街地こそ、若い年齢層の居住需要が見込まれる場所ではないだろうか。
他都市でも、かつて中心部が空洞化したために小学校の統廃合を行ったものの、中心部への人々の回帰が始まり、教室が足らなくなる現象があちこちで現れている。中心部での居住のためには、小学校や保育施設は必要不可欠な施設と考えられる。

③学校は地域の宝もの・小学校の役割
○四番丁小学校区の歴史

四番丁小学校は明治25年に開校以来、百余年の歴史を刻んでいる。校区は瀬戸内海を背景に水城「玉藻城」を中心として発展し、現在も商店街、オフィス、官庁を中心とする経済、文化、政治の拠点である。1588年高松城の築城とともに商人町や職人町が形成され、諸国に先駆けて、上水道も整備された城下町としての発展の中心となる地域であった。明治の初めには兵庫町に『博文社』が設けられ、全国の新聞の閲覧所となり、高松の新しい文化の発展のさきがけとなる、人々や施設が多くあった地域でもあった。
四番丁小学校設立のためには、多くの人々の尽力があった。創設期、戦後の復興期、土地を提供したり、奉仕活動、給食づくりなど、地域の人達やお父さんやお母さんたちは、子どもたちの教育の場作りに力を尽くしてきた。学校と地域はまさしく一つになり、地域の宝として学校は大切に守られてきた。昭和34年全国健康優良学校日本一に選ばれ、校区をあげてお祝いをしたのもそれまでの地域の人々の熱い思いがあってのことである。

○地域の文化を担う子どもたち

小学校は地域に住む全ての人たちが通学し、学び、母校に対して愛情と誇りを持つ、心のよりどころである。地域にあって子どもたちは周りの大人たちの様子から学び、地域に伝わる文化をおじいさんお父さんから継承していく。四番丁小学校区は高松の歴史そのものであり、400年前高松のまちが形成されて以来の人々の営みや息遣いがこの校区につながり、子どもたちに引き継がれている。H10年にまとめられた『地域文化をつくる教育』[平成11年2月発行 四番丁小学校・松林社]という四番丁小学校の実践記録中にはこのような地域に生きる子どもたちに、伝統文化の継承者として、新しい文化を創造する担い手として地域の文化を再認識ししながら、育ってほしいという先生方の思いが表れている。自分の生まれた町を大切に思う気持ち、自分の学んだ学校を大切に思う気持ちはそんな学びの中から生まれ、「こんなまちになったらいい」「ぼくはそのためにこんなことをします」という次代のまちづくりを担う子ども達が確実に育っているのを見る事が出来る。

○地域の中の小学校

小学校は地域の公共的な場所としても活用される。子どもたちにとってだけでなく、地域に住む住民、特に高齢者や体の不自由な人にとっても歩いて楽に通える身近な小学校は大切な場所である。特に災害時の避難場所としての役割は大変大きく、誰もが歩いて学校に集まって来られなければならない。多様な年齢層、さまざまな立場の人たち、多くの職場に通う人たちにとっても安心して生活し続けていける地域をめざす人々の、まちづくりの拠り所として小学校の役割には大きいものがある。

Ⅲ 四番丁小学校の歴史と伝統、その活動と取り組みの現状

第Ⅰ章で述べた私たちの提言の内容をより理解いただくために、またこれからのあり方を考えるに際しても四番丁小学校が過去および現在において果たしてきた役割をもう一度見直すことが必要であると思われる。

1.四番丁小学校の歴史と伝統

ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という名句を残している。先哲に学んで、四番丁小学校の歴史と伝統の概略を振り返る。

① 最初に開校された高松市立小学校
(1) 四番丁尋常小学校の開校

本校は、明治 9年 (1876) に開校された玉藻小学校を前身とし、その後の変遷を経て同25年 (1992) 4月1 日に高松市立四番丁尋常小学校として慈恩寺境内に設立された。本校のほかに五番丁 (浄願寺跡)、西通町 (二番丁小学校北側)、 西浜 (西浜金比羅堂) の 3分教場をもっていた。この年高松市に開校された小学校は本校と鶴屋町尋常小学校 (跡地は琴電片原町駅東側) であった。
本校の就学区域 (以下校区) は、内町、西内町、西の丸町、寿町、玉藻町、丸亀町、古新町、外磨屋町、南紺屋町、南鍛冶屋町、北亀井町、南亀井町、田町、南新町、一番丁~九番町、天神前、中新町、旅籠町、古馬場町、兵庫町、新湊町、浜の丁、西新通町の31町となっており、大変広い範囲から通学していた。本校の就業年限は 4年、 各学年とも 2学級で計 8学級。分教場は 1、2 年のみで 3学級。合計11学級。開校時の在籍数は 838人であった。高松市全体の就学児童数 2,960人の約3割を占めていた。4月 4日の入学式には、来賓として赤松市長・北村市会議長・吉本学務委員等臨席、児童 200余人父兄併せて 400余人が出席したことが「香川新報」に報じられた。以来、本校は高松市の代表的な小学校として、教育の様子や学校行事などの諸活動が日常的に同紙に掲載され、市民に広報されて来た。

(2) 時鐘楼の建設

明治33年 (1900) 本校校庭に時鐘楼が建設された。藩主松平頼重が鋳させた鐘を高松市民の時鐘として利用したのだ。昭和 3年(1928)市庁舎のサイレン設置まで、「四番丁のゴン」と市民に親しまれた。今は海浜公園に移され、新名所「報時鐘」となっている。

(3) 二番丁尋常小学校の分離独立

明治35年 (1902) 二番丁尋常小学校と新瓦町尋常小学校が新設され、西通町・西浜分教場は閉鎖。糸浜分教場は二番丁尋常小学校の分教場となる。それに伴い、校区は三番丁~十番丁、天神前、旅籠町、中新町、南亀井町、北亀井町、南鍛冶屋町、南新町、丸亀町、兵庫町、古新町、外磨屋町、南紺屋町、西新通町、古馬場町、北古馬場町、新湊町の24町と縮小されている。でも、高松市の市街地の大部分を占めていた。
この年、西園寺公望公が、翌36年には芳川顕世文部大臣が本校を視察されている。

② 戦災からの復興

(1) 困難な事情の中での復興
昭和20年(1945) 7月 4日、戦災のため校舎は全焼し、学校は休校状態となった。21年3月末に校長は任命されたが、授業再開の見通しはない。本校校区の大部分の児童は、二番丁国氏学校で授業を受け、校地のほとんどは、農業会や県市の事務所、製材所に貸与し、廃校のうわささえ流れた。
昭和22年(1947) 1月、地域住民や卒業生の有志による「四番丁小学校復興期成同盟会結成された。期成同盟会は、四番丁小学校の復興を強力に当局に迫るとともに、校舎新築運動を開始し、1期工事、2 期工事の落成式の総経費を負担した。この会は 1期工事終了後解散「四番丁小学校同志会」と改称する。同志会は、その後校旗を寄贈するほか、奨学基金制度を設けるなどして、学校教育に貢献している。
校地内にあった大本寺・慈恩寺・民家は、都市計画によって換地先へ移転したため、校地は拡充され 3,995坪となる。
昭和23年(1948) 4月、二番丁小学校の 7教室を借用して授業を再開し、二部授業を実施する。同年 7目末に新校舎の第一期工事が竣工し、入校式を行った。児童数 670人、学級数は16であった。二部授業の完全解消は、26年 1月の第 3期工事の竣工を待たなければならなかった。

(2) 昭和天皇の本校ご視察

昭和25年(1950)は、四番丁小学校の歴史に大きな足跡を残す年となった。天皇陛下 (昭和天皇) が四国地方ご巡幸に際し、本校を視察されたのである。陛下は、6 年生の討議学習や県下の児童・生徒の作品を御覧になり、給食功労者として母の会代表にお言葉を賜った。母の会はその記念として、行幸記念図書館を建設して学校に寄付した。

③ 大正以降の校区の変遷と児童数の推移

校区については、大正10年 (1921) ごろまでは一定せず、学校周辺の児童数に応じてその町全部若しくは一部が変更されていたという。そのため、兄弟によって就学校が異なるという不都合が生じ、保護者の要望によって校区を決められた。
 しかし、校区は明示されたものの寄留して通学する者が多く、中には、府中村から汽車通学していた者もいたという。当時の決まりとして、1 学級の定員は70人で、10人までの増減は認められていた。このため、6 年生では80人にものぼり、机間巡視もできない状態になった。市当局においては、就学目当ての形式的な寄留について、ある程度黙認していたが、昭和11年 (1936) 度から就学目当ての単独寄留の整理に乗り出した。実際の居住地を調査して、それに基づいて就学指定をした。指導の効果は逐次現れ、本校の在籍児童数は、この年を境として、少しずつ減少していった。
 昭和23年 (1948) の本校復興時における校区は、玉藻町、内町、西内町、西の丸町、寿町、兵庫町、丸亀町、南新町、古新町、外磨屋町、南紺屋町、新湊町、南鍛冶屋町、南亀井町、北亀井町、三番丁~七番丁の20町であったが、27年香川大学附属高松小学校の学区制廃止により八番丁と田町が加わり22町となって現在に至っている。
 児童数は戦後のベビーブームの影響と、寄留入学者の増加などによって急増し、昭和33年(1958)度には 最多の 2,435 人を記録している。以後、ブームの衰えと市当局の就学指導の徹底により、児童数は漸次減少してきた。殊に高度経済社会に移行するに連れて、市街地の人口の空洞化が急速に進み、少子高齢化時代の到来と相まって、本校の児童数は激減、創立 100周年を迎えた平成 4年 (1992) 度の在籍児童数は 333人、15年度には 159人となり、増員への施策が望まれる。

④ 保護者、地域の協力と援助

本校は市内外の学校と比べて学校の施設・設備が充実していた。市当局の協力はもちろんであるが、保護者や地域の方々の物心両面にわたる協力援助の賜物とも考えられる。

(1) 同窓会と父兄会

四番丁尋常小学校同窓会は、 明治40年 (1907) に創立。父兄会は翌4I年に発足している。義務教育延長の関係で狭くなっていた校舎の拡張についての活躍が期待されたのである。このため、「父兄会細則」には、教育上必要な物品の購入や施設経営などが明記された。その実績として、明治43年 (1910) には、運動場を西へ拡張 (470 坪) し、当初1,536坪であった校地面積が 2,O06坪となった。また、当時としては珍しく、運動場の回りにブランコ・回旋・鉄はしご等の遊具を設置し、講堂・裁縫室・唱歌室も建築されている。
 昭和 8年 (1933) には講堂の改築工事が竣工。緞帳・テーブル・引き幕・映写幕・ピアノなど至れり尽くせりの内部設備であった。特にシャンデリアは 3基あり、銅製のすばらしいもので市内では例をみないものであった。
 昭和16年(1941)になると、運動場の東 367坪を拡張し、校地は2,373 坪となる。この際、拡張費調達のための寄付が問題となり、拡張費は父兄会が負担した。市は戦後になりこの地代を父兄に払い、これが前述の「復興期成同盟会」の資金となった。
 大正 4年(1915)電話・ピアノ購入。ピアノは二千数百万円と伝えられ、当時市内には松平家が高松高等女学校に寄付した中古のピアノが 1台あるだけであった。

(2) 保護者会、母の会

 昭和23年 (1948) 5月、保護者会が結成された。復興途上にある学校の後援団体として、経済的裏付けを持つP T Aを作ったのである。同29年 5月には保護者会を解消して母の会(母と教師の会) が発足した。学校給食奉仕を中核として多様な活動を実施して、学校教育を物心両面から支えた。

(3) 体育館建設準備委員会

 昭和28年(1953)11月、全額地元負担による体育館が落成した。この体育館建設のため、四番丁小学校では26年 5月に「体育館建設準備委員会」を結成し、27年10月までに13回会議を開き、500 万円の寄付採納を条件にその建設を市議会に陳情、市財政困難の理由で保留となる。28年再度上程して可決された。この体育館は、落成式を待たず28年の四国国民体育大会においてバスケットボール会場として使用された。

(4) 復興協力会
 「復興協力会」は校舎の改築、施設や備品の充実を促進するために、経済的援助をする目的を持って、昭和29年に結成された。加入は 1世帯単位とし、1口月額 100円で申し込んだ。結局延口数は 1,690口、1カ月の合計金額は 167,900円であった。総額の半額は一般会計として校舎の営繕や教育内容充実のために使い、残りの半額は建築資金として積み立てられた。

⑤ 先導的にして着実な教育実践

本校は創立当初より香川県の名門校と目されてきた。そのため、県市当局の格別な理解により、県下のリーダーと目される校長と優れた実績を積んだ教員が配置され、保護者や地域社会の人々の絶大な協力による整った教育環境の中で、着実な教育が実践されてきた。
 それは、教育の基本である全人教育を目指し、子どもと地域に立ち、伝統と創造を重視し、平凡に徹して非凡を求めるものであった。戦後の教育についてその一端を述べる。

(1) 学校給食・健康教育の推進

 健康教育の一環として学校給食を重視し、教育方針の中心としてカを入れた。昭和23年(1948) 9月給食開始。学校と母の会が協力して、施設の整備と内容の充実を図る。翌年には、ユニセフ給食の実施指定校 (香川県で本校のみ) となり、以降は給食モデル校として研究と実践に努める。 その結果、前述のように25年天皇行幸では、代表が拝謁の栄に浴し、32年には学校給食の実施について成績優秀校として文部大臣表彰を受けた。
 健康教育については、全人的人間の育成に基盤を置き、あらゆる活動の場において、積極的・自主的に健康生活のできる人間を作ることを目標とした。学校運営機構の保健に関する中核となる保健促進委員会を設け、その下に保健委員会を置いて、組織的・機動的に教育活動が推進できるよう図った。具体的には、健康診断の結果に基づいて、体格・近視予防・寄生虫駆除・トラコーマ対策などを実施する。また、習慣形成として毎日の健康生活反省簿の記述と乾布摩擦を実施。毎週1 時間の保健学習を行った。こうした積み上げの結果、昭和28年 (1953) 健康優良学校準日本一、 34年健康優良学校日本一の栄誉に輝いた。

(2) 障害児教育の推進

身体虚弱児を対象とした養護学級は昭和30年(1955)に開設し、漸次に学級増を図る。肢体不自由学級は昭和32年(1957) 9月に開設。昭和34年(1959) 2月には県小学校長会主催の特殊教育研究会を、12月には四国四県特殊教育研究会を開催。養護学級の公開授業と研究協議を行った。
 難聴学級は昭和43年(1968) 4月に設置。四国で初めて。翌年 1学級を増設する。45年には言語障害学級を県下で始めて設置する。特に、難聴・言語障害学級の担任は、県立盲・聾学校との連携を密にし、県内に設置された学校との共同研究や支援活動を行って来た。

(3) 科学教育の推進

 昭和30年代後半から、校内で理科主任を中心にした自作教具による教材開発が盛んに行われた。どの単元もグループ実験ができるだけの自作教具や標本などの資料も多く整えられた。低・中・高学年それぞれに理科準備室があり、理科工作室も設置されていた。昭和42、43年度には、県教育委員会から科学教育の研究指定を受け、科学的な見方・考え方を育てる実践的研究を進めた。その結果、昭和43年創意工夫育成功労学校として科学技術庁長官賞受賞。42、61年には科学教育優秀校としてソニー理科教育振興資金を受けた。

⑥ 偉大なる先輩の顕彰
四番丁小学校の卒業生で、その功績が顕著な方は大勢いるが、その一部を紹介する
 政治家のうち、三木武吉は、保守合同を目指し日本民主党と自由党を合同させ、自由民主党最高顧問となる。政界の陰の実力者として名を馳せた。成田知巳は、社会党公認で12回連続当選し、昭和37年(1963)党本部の書記長となり構造改革論の旗手として鳴らした。43年委員長となり名声が高かった。
 文学では、十返肇は文芸評論家といわれ、数多くの評論集のほか、小説「最初の季節」を執筆。向田邦子は父の転勤に伴って来高し、四番丁小学校を卒業した直木賞作家。テレビ脚本では「寺内貫太郎一家」など、小説では「父の詫び状」など多数ある。
 菊池寛氏は「屋上の狂人」などの戯曲や「恩讐の彼方に」などの歴史小説、「真珠婦人」などの通俗小説を執筆。雑誌「文芸春秋」の創刊や文芸協会の設立に尽力し、芥川・直木両賞を創設する。文壇の大御所と呼ばれた。その偉業を顕彰するため、中央公園には、銅像、生家跡には顕彰碑、「菊池寛通り」の道添えには「父帰る」の一場面の銅像とその一節を彫り込んだ文学碑が建てられている。 また、市立図書館内に菊池寛記念館が設けられ、一般人・小中学生らを対象とする香川菊池寛賞・ジュニア菊池寛賞も設けられた。
 本校においては、前記 5人の写真を玄関に掲示して顕彰するほか、昭和56年度(1981)からは、菊池寛賞、十返肇賞、向田邦子賞を設け、作文・小説・脚本の作品を募集して表彰する。また、昭和53年 (1978) から菊池寛の忌日に当たる 3月 6日前後に「菊池寛祭り」を開催、業績の紹介や作品の劇などを発表。児童代表は銅像の清掃を行う。

2.四番丁小学校の活動と取り組みの現状

① 「地域文化をつくる教育」への取り組み

変化の激しい昨今の社会情勢のもとで、子どもたちに生きる力を育てる教育の必要性が提言されたのは、平成8年に出された第15期中央教育審議会答申であった。その精神は、現行の学習指導要領に表されている。この時期、本校でも、国際化,情報化,少子高齢化など、様々な課題が波のように押し寄せる社会で、自らの未来を切り拓いていくことができる力を子どもたちに育てるために、それまでの学校課題の見直しが図られた。それは、長く輝かしい歴史に培われた本校の伝統に立ち、これまでに経験したことのない課題に立ち向かうことのできる教育活動の模索であった。
 そこで生まれた学校課題が「地域文化をつくる教育」であり、地域の自然, 伝統, 文化,そこに生きる人々やその暮らしなど、自分が生まれ育った土地と人を愛する人間こそが、人々が平和に共存できる新しい社会を築くことができると考えた。本校区には、城下町として育まれた潤いのある文化や瀬戸内海に面した豊かな自然がある。また本校の卒業生である文豪 菊池寛は、「郷里の風景」でふるさとの美しさを絶賛した。そのような地域の文化や自然, それらにかかわる人々を教材化し、地域の人々とともに子どもたちの学びを創り出す教育活動が、四番丁小学校で生み出された。
 この教育活動は、全国的にも認められ、平成13年に,第17回時事通信社「教育奨励賞」優良賞を受賞することとなった。

② 少人数指導を生かした本校の特色ある教育活動

(1) 教科等の学習

 最近では、ゆとり教育の弊害として、学力低下を懸念する声が聞かれる。本校では、確かな学力を育成するために、小学生の発達特性である、為すことによって学ぶ学習をめざし、少人数指導のよさを最大限に生かし、体験, 表現, 交流を大切にした学習活動を組織している。
 自然体験や社会体験の少ない子どもたちに、各教科等の中でも体験的な活動を取り入れることにより、子どもたちの学習意欲を喚起し、学びのおもしろさに気付くことができる。また、学んだことを他の場でも試してみようとする。理科では、てこの原理を使い、重たい自動車を持ち上げる学習や、学校の池で飛び立つ蛍を教材とした昆虫の学習が行われている。算数においても体験的な活動を取り入れた学習が積極的に行われている。
 子どもたちは、気付いたことや分かったことを表現物に表すことで、理解が定着する。図工科や音楽科などではもちちんのこと、社会科における歴史人物絵本作り、生活科における校区の自然を題材にした歌作りなどを通して、子どもたちの表現力は磨かれている。「菊池寛をはじめ、本校の卒業生である十返肇,向田邦子に続こう」という趣旨で設けられている三賞には、毎年たくさんの子どもたちが応募しており、全国的なコンクールで優秀な成績を残す子どもも多い。また、日々培われた表現力は、年度の最後に行われる「菊池寛まつり」で大いに発揮されている。
 最近の子どもたちは、人やものとのかかわりの弱さも指摘されている。日々の学習の中で、人とかかわりながら学ぶ場を重視することで、今まで気付かなかった友だちの考えのよさや、自分ならではの発想のおもしろさに気付き、共に学び合う意味を理解することができる。交流活動についても人間関係や個のもつ学習課題を考慮した活動が組まれている。
 このように、本校では、少人数のよさを生かして、個々の子どもに生きるカを育む確かな学力を育てようとしているのである。

(2) 総合的な学習の時間「人間学習」
 総合的な学習の時間は、子どもたちが教科等で培った学力が総合的に生かされる場である。本校では、地域に根ざしたテーマを掲げた総合的な学習がかなり以前から行われてきた。この学習を「生き方を学ぶ学習」として位置づけ、「人間学習」と名付けている。地域の様々な分野の人をゲストティーチャーとして招き、子どもたちがつくり上げるダイナミックな学習が展開されている。また、学習のねらい、子どもたちが身につける力、学習計画, 教科等との関連が明確に示されていることも、特色のひとつである。

次に,各学年の「人間学習」の概要を示す。

学年

テーマ

学 習 内 容 等

1 学年

よつばの森の音楽げきをつくろう

子どもたちが「よつばの森」と呼ぶ学校林の四季を、

音楽劇にする。子どもならではの感性でとらえた、豊かな四季が歌詞や曲、身体で表現される。

2 学年

よつば町をつくろう

自分たちがつくりたい町を大型模型で表現する。子どもたちは四番丁の町のよさに学び、もっとよい町をつくろうとする。

3 学年

ホタルの影絵げきをつくろう

ホタルの飼育に取り組み、ホタルが育つ自然環境の保護や、ホタルを育てようとする人の温かさを学ぶ。学んだことを脚本にし、影絵劇にする。

4 学年

さぬきものがたり館をつくろう

保多織、後藤塗り、和菓子などさぬきの伝統文化を学ぶ。職人さんに実際に作り方を学び、伝統文化や職人技のすばらしさに気付く。自分たちの博物館をつくる。

5 学年

自分たちの考えるサンポート高松をつくろう

都市づくりについて学ぶ。自分たちの考えるこれからの都市の在り方をパソコンを使って表現したり、発信したりする。

6 学年

国際人としての生き方を卒業論文にしよう

庭園文化、日本文化について英語で外国の人たちに発信する。そのために英語を学ぶ。国際交流の意味を体験をふまえて、論文に表す。

このうち、第3学年、第4学年の人間学習、1年間の学習の集大成の場である菊池寛まつりについて、次の項で紹介する。

③ 「人間学習」 の例

(1)ビオトープにおけるホタル飼育学習「街中ホタル文化をつくろう」
 
 本校の初夏の風物詩の一つに「ホタル鑑賞の夕べ」がある。夏の夜空に幻想的な光を放ちながらホタル池から飛び立つホタル、それを街の中で間近に見られるこの行事は、今や地域の方たちみんなが楽しみにしている恒例の行事となっている。
 本校は、平成5年9月に塩江小学校と姉妹縁組をし、塩江温知会から分けてもらったホタルの幼虫の飼育を始めた。平成6年3月、工事日数43日、延べ254名の紫雲ライオンズクラブの会員が594時間の労働奉仕により「ホタル池」が完成。その後、現在に至るまで代々、毎年3学年の子どもたちの手によりホタルを受け継ぎ、平成15年5月には10代目のホタルが夜空を舞い、地域の人々の歓声が広がった。
 3学年の子どもたちは、一年間かけて採卵から羽化に至るまで、本校独自の飼育ノウハウでホタルを飼育していく。美しい光を放つホタルの成虫が1週間程しか生きられず、たまごを残して死んでいく。そのたまごに毎日霧吹きをしてやり、次第にたまごの色が変わっていく。やがて0.5ミリほどの幼虫が誕生。命のつながりを感じ、喜ぶ子。「ホタルってすごいな。生まれたときからお父さんもお母さんもいないのに自分一人で生きていくんだ。ぼくだったら生きていけないな。」と自分と比較してそのがんばりを感じる子。幼虫の飼育観察はもちろん、それだけにとどまらず、この学習は自然からの学びを通して子どもたちの心を豊かに掘り起こしている。6月から翌年3月まで、ホタルを太陽光発電によるクリーンエネルギーを使用した循環ポンプで井戸水給水をし、水槽内で飼育している。飼育バット内にホタルの生育条件を満たす環境をつくりだせるよう子どもたちはカワニナを補給したり、幼虫が食べ残したカワニナの殻を取り除いたり、水の管理に気を配ったりするなど、熱心に世話をしている。そして春のはじめにホタル池に幼虫を放流。5月に成虫となって土の中から出てきたときには大喜びだった。
 1年間にわたる長いスパンの人間学習の中で、ホタルの生命力のたくましさを学ぶとともに生物への愛着、環境の大切さを体験的に学んでいる。また、こうした地域の方とともに創り上げてきている街中ホタル文化は,子どもたちにとって大きな誇りとなっている。

(2)地域の伝統文化に学ぶ教育「自分たちのさぬきものがたり館をつくろう」

本校の4学年は1年間を通してさぬきのよさとは何かを見つめていく人間学習に取り組んでいる。伝統的なものづくりは、さぬきの気候に育まれてできあがった素材をそこに住む人の知恵で製品へと形を変えていく営みである。そのよさを見つける素材として、本校区には、江戸時代からずっと続いてきた漆器や保多織、和三盆を使った和菓子などがある。
 子どもたちは、それらの概要を資料等で調べ学習した後、それぞれの店を訪ね、実際に作っている様子を見学する。指紋をつけないように気を配りながら何度も何度も漆の表面をたたく後藤塗りのひたむきさ、細い糸を見事な手さばきで黙々と織る根気よさ、和三盆のよさを生かしながら上質の特産品を創作する誇りなどそれぞれの職人さんに直接ふれることにより子どもたちは本物を感じるとともに,ひたむきにものづくりに取り組むその方の人間性にもふれ、自分の生き方を見つめ直すことができる。
 その後、それぞれの方をゲストティーチャーとして招き、子どもたちは漆器や保多織,和菓子を作っていく。自分で作ってみることにより、「保多織は3段に1段盛り上がる部分ができるから、ここに空気がたまって、夏は涼しく、冬あたたかいんだな。」などそのもののよさを体感できる。知識としての理解が実感を伴った理解へと深まっている。
 城下町のもとで発展し、脈々と続いてきたこうした情緒ある文化にふれることにより、その尊さに気付き、自分の生きている土地に誇りと愛着をもつ子どもに育ってきている。
 こうした学習は、伝統工芸士等、本校の様々な分野の方々の協力の下に行われており、子どもたちの心に残る学習となっている。

(3)「菊池寛まつり」

本校では26年前から毎年3月の第1土曜日、菊池寛の命日 (3月6日) にちなみ、人間学習で学んだことを地域へ発信する場として「菊池寛まつり」を開催している。「地域文化をつくる教育」では、この場での発表を一年間の目標として創作活動に取り組み、劇や歌, シンポジウムなど表現方法を創意工夫し、学習の成果を発信している。

 1学年は、校庭にある学校森林「よつばの森」や高松中央公園で、たくましく生きる動植物を観察して、生き物へのメッセージ、詩などを考え、音楽劇で発表し、自然環境を大切にする気持ちを育んでいる。

 2学年は、高松の中心街を探検し、自分だったらどんな街作りをしたいかという夢を盛り込んだ大型模型「ゆめのよつば町」を作り、模型を舞台にした物語を演じる。はげさんのように街に息づいている文化を認識させるとともに、児童相互, 対年少者の人間関係育成を図っている。

 3学年は、ホタルを育てた体験をもとに、影絵劇を制作する。ホタルの成長への願いを込めたこの影絵劇は、翌年5月末の「ホタル鑑賞の夕べ」でも保護者や地域の方に発表している。
 
 4学年は、和三盆を使った和菓子, 保多織, 漆器といった伝統文化に親しみ、こうした品をつくる人々の思いを紹介番組形式の劇などで演じている。

 5学年は、サンポート高松を題材に未来の都市づくりを構想し、模型や企画書を作成していく。その上でホームページを作ったり、テレビ会議システムを使って姉妹都市の秋田県矢島町の児童と話し合ったりして企画の見直しを行う。街づくりを行っている方からの意見も聞き、そうしたことをもとに未来都市への構想を劇やシンポジウム形式で発表する。

 6学年は、菊池寛まつりの創設以来の伝統で、同氏の作品を劇にして演じている。

 こうした教育は新しい地域文化の形成に一役買っている。表現の場そのものが地域文化の一側面になっているとともに、菊池寛まつりやホタル鑑賞の夕べは地域の年中行事として定着している。また、児童と地域住民との交流は、地域ぐるみで文化を育てていこうという気風をつくっている。2学年が交流する商店街の人々や寺の住職、4学年が交流する伝統を守る職人などそうした認識を共有している。子どもたちは、こうした教育を通じて出会う人々から学ぶことが多く、これからもずっと大切にしていきたいものである。

Ⅳ メッセージ

この提言の発行に際して多くの方々から四番丁小学校に対するメッセージをいただいたのでここに紹介する。(50音順、敬称略)

112年と言う歴史ある四番丁小学校を廃止する市政計画案を市民代表の市議会に提出可決された。当小学校を母校としない無関係者で行政が動いていると思います。本校開校時点で西通町分校、西浜分校を持つ本校を廃校する理由は地域住民を無視している。数多くの栄光(14件)の記録ある当校を廃校されると諸先輩卒業生は伝統ある母校のない悲しい結果にしたくない。存続は卒業生で運動しなければならない。運動される皆様のご活躍を期待いたします。
泉 昌三 (82歳)

静かな寺町の中心、鐘つき堂から鐘の音が聞こえ朝を迎えます。四番丁小学校からです。小鳥の囀る様な中に入り学校に向かいます。楽しい一日の始まりでした。祖母の私も子供、孫も卒業生です。現在3歳の曾孫も四番丁小学校の卒業生にさす事が願いです。小さな願いですが、私にとっては大きな夢です。なぜ四番丁小学校が消えなくてはいけないのでしょうか?夢の花が大きく開く事を祈っています。
植田 澄子 (82歳)

我が国の近代国家への胎動が始まったばかりの明治25年4月。教育に熱心な地元父兄のあつい要望に応えて市内慈恩寺の境内において、わが校は開校。明治、大正、昭和、平成と日本が辿った歴史とともに歩み続けて来て百余年。社会の進展は、教育の力に待つところ大であります。先輩たちが築きあげた汗と血がにじむ、この由緒ある四番丁小学校の灯を絶やすことのないように願う次第である。
大社 義規 (89歳)

「赤いお屋根の二階建て 立派にできてうれしいな・・・」 以下は忘れたが、昭和24年、それまで間借りしていた二番丁小学校から、新校舎が成ってもとの地に復帰したときに作られた四番丁小学校の校歌である。私が4年生だったときのことと思う。昭和天皇の御幸があり、全高生が正門(当時は敷地の北側に設けられていた)前に横列してあずき色のお召し車をお迎えし、後に私が5年生のときに担任していただくことになった平尾只治先生の授業を天覧された。ほかの学校にも御幸されたのかどうかは知らないが、私たちは選ばれた者として誇りに思った。四番丁小学校は特別なのだと。当時は、皆が裕福だったわけではないが、活気があった。いろんな子がいて、行き来があったが、四番丁小学校の校区の多くを占める商店街は、営業の場所であると同時に生活の場であって、夜は遅くまで営業し、子どもたちはそこから四番丁小学校に通っていた。いま、ときおり帰高して商店街を歩いても、夜7時ともなれば商店はことごとくシャッターを降ろし、通りには人影もまばらで、人びとの生活の基盤が市中から外に移っていることをうかがわせる。
少子化の影響もあるだろうが、市中の空洞化、ドーナツ現象が、四番丁小学校を存亡の危機にさらしているのではないか。私たちは、四番丁小学校に限りない愛着を覚えるが、ノスタルジーだけではこの危機を救うことはできない。東京でも泰明小学校が廃校の危機にさらされたとき、銀座の商店主たちが、銀座の活性化と再興をセットにした存続運動を展開したことが思い起こされる。
地元で存続運動をしてくださっている方々には、大変なこととは思うが、行政には、単に四番丁小学校の存廃だけに着目するという後ろ向きの施策ではなく、市内の活性化を図るための施策を展開させるよう働きかけることが肝要に思われるのである。
大西 昭一郎

私の父は明治21年生れで、生きていたら116歳になります。その父が四番丁で菊池寛と同級であったとよく話しをしていました。彼は国語はずばぬけて良く出来たと申しておりました。私は子供の頃は地区外でしたので、2階建の新しい校舎で教室には電灯もついている様でうらやましかったのを思い出します。私の長女や孫も四番丁小学校を卒業して、城内中学に入学しました。歴史ある学校がなくなることは、「ふるさと」を無くする思いです。
小比賀 政一 (81歳)

統合の原因が児童数の減少であるとすれば校区の修正により改善可能である。菊池寛はじめ卒業生には有名人を多く出し、その誇りと伝統は今なお教育の場に輝いている。又、全県的にもあらゆる点で有名校としての存在を認められている。高松の中心にあり地域の発展に貢献してきたが廃校になると街の活性化にも影響が大である。これからの四番丁小学校の有り方については障害児学級等特色ある学校経営に尽力すべきと思う。
川田 保一(元校長)

歴史と伝統ある高松の代表的小学校である四番丁小学校は是非とも地域の為にも存続すべきです。私の子供が通っていたころとは、生徒の数も激減しているのは事実です。少子化と社会環境の変化にもよりますが、このときこそ施策を講じなければ成りません。大きな視野をもって、校区の見直しをすべきです。また、なお一層の教育の充実と魅力ある学校にすれば、見直しをしたときに良い方向に行くでしょう。テレビで東京で生徒が激減したため廃校にしたら、近くにマンションができ行く学校がなく慌てて開校したと報じていました。また、災害時の避難場所としても地域住民にとっては重要な場所です。行政として将来ある子供たちのために宜しくお願いします。
塩谷 健 (70歳)

「四番丁小学校が無くなるって本当ですか?」 私が在校中は生徒数が多過ぎて教室が足りず、体育館を区切って授業を受けていたのに。「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」のメロディーが校庭に流れ、「皆さんもう遅いので早くお家に帰りましょう。」とスピーカーの声が聞えるまで友達と遊んでいたのが、まるで昨日の事の様に思い出されます。私達卒業生にとって母校が無くなる事は、大切な思い出が、すべて壊されるような衝撃です。
鈴木 龍子 (56歳)

子供がいなくなれば、学校が無くなるのは必然でしょう。なぜ子供がいなくなったのでしょうか。四番丁小学校のあり方ではありません。商業の構造の変革だと思います。従って子供が住める空間の創設だと思います。1・2階を店舗として、その上に居住空間を屋上に児童公園や児童館を作れば、子供の住める町になると思います。空地があれば駐車場となり子供が住める場がなく、大人の都合で子供が締め出されています。
谷本 博 (78歳)

創立百十有余年に及ぶ四番丁小学校は、政治家三木武吉、成田知巳をはじめ、政治・経済・学術・文学など各界の歴史を動かした立派な人物を輩出している。
 その教育は、心身共に健康な日本人の育成を目指し、その結果、健康優良学校日本一に輝くほか、常に先見性を持った課題と取り組み、着実に実績を挙げている。また、公民館・老人会・商店街など地域交流を重視し、又、市庁隣で市行事に積極的に参加し、地域活動の拠点である。
辻 正 (71歳)

四番丁校区は、香川県の政治・文化の中心地であり、四番丁小学校は数々の名士を誕生させた。文壇の大御所菊池寛は大正12年に「文藝春秋」を創刊、昭和10年に芥川賞・直木賞を設ける。十返肇は評論家・小説家として名をなした。向田邦子は第83回の直木賞の受賞者である。政治家としては三木武吉・成田知巳などの大先輩を送り出している。このような学校は、日本全国を見渡しても稀有な存在といえよう。
 今、児童数の減少によって、学校の統廃合問題の渦中にあるが、存続を希望しているのは、全ての卒業生・在校生・保護者、そして四番丁小学校に勤務した全ての教職員である。
 高松市の中心部にある小学校は、街の核として、小学校・幼稚園・保育所・高齢者の集う総合施設として再建し、存続させてほしい。
 市民が望んでいた菊池寛の生家跡に記念館を建設することが、かなわなかった今、母校に「菊池寛記念館」を移設してほしい。観光バスの駐車場の無い現在の施設、高松市図書館・高松市歴史資料館との総合施設から、是非独立館として、県内外の人々が訪れるように配慮してほしい。
伴 薫 (77歳)

私の娘二人はともに四番丁小学校で、一学年一学級で、しかも二十名弱という少人数学級で六年間すごし、城内中学校にすすんだ。よく、「少人数では社会性が育たない」といわれるが、そのようなことは決してない。むしろ、少人数だからこそ個々の個性が大切にされ他人への思いやりも育てられる。四番丁小学校、城内中学校とも今回の統廃合計画の対象とされているが、再度、小規模学校の利点を直視すべきであると思う。
平尾 行敏 (44歳)

木造の校舎、藤棚の下で遊んだインサ、屋上から眺めた隣りの寺の仏像。中庭にあったガチョウ小屋。そして、運動場でやったドッチボール、野球、運動会(そうそう、徒競走、リレー、騎馬戦、組立体操)。バスで行った海水浴、林間学校、修学旅行。おいしかった給食。(コッペパン、シチュー、トースト、うどん、カレー汁)。三角きんとマスクをして毎日やったそうじ。(広かった西裏の楠のまわりって、今見るとこんなに狭かったんですね。)やさしかった1・2年の奥田先生。ちょっぴりこわかった3・4年の谷本道子先生。やんちゃ坊主に手を焼いていた5・6年の松本英子先生。映画教室につれていってくれた福島先生。任期途中で亡くなられた岩瀬校長先生。みんなみんななつかしい思い出ばかり。鉄棒の隅のイチョウの木だけは、今もそのままにずうっと見守ってくれていたような気がします。いつの間にか私はすっかり年をとってしまいました。でも四番丁小学校の門をくぐると、私はあの頃の自分にもどっているのです。半ズボンに運動靴をはいた自分が走っている姿が見えてくるのです。間もなく、私の孫もこの学校にもどってくるでしょう。どうか、どうか、それまでこの学校をなくさないで下さい。私共の思い出のつまった校舎をこわさないで下さい。お願い致します。
福本 眞治 (55歳)

街の空洞化とか、ドーナツ化現象とか言われている今だからこそ、市の中心部に厳として存在する四番丁小学校の役割や使命は、重大だし永遠だと信じます。学校は子供の数の多数によって論議するものではありません。果たしてきた実績や今歩んでいる実情や、将来に向けた希望を大切に、子供中心のあり方こそが、大人の責務です。四番丁小学校バンザーイ!!
細川 克己 (77歳)

卒業生の一人として常に誇りと思い出のある大切な学校です。法律のことは分かりませんが、校区を見直し生徒を増やすことはできないのでしょうか。数多くの著名人を輩出、その経歴書の中には小学校の名が記述され、親子三代通学させていただいた家族の思いは計り知れません。もっと将来を見据え、枠にこだわらずに可能性を追求したい。利潤を考えるあまり索漠とした教育環境にしてはならないと不安に思うところです。
宮崎 孝郎 (57歳)

四番丁校区の住民は歴史、伝統ある四番丁小学校を残そうと思う気持。親は自分の母校に進めたい気持。それらの事を廃校反対理由にあげているが、廃校反対の是非を問う際、これらの理由を持ち出しては、議論が混線してしまう恐れがある。小手先だけの数合わせはやめて、学校統廃合対象になった地区は自由校区に変えた方が良く、子供や保護者が入学する小中学校を選べる「学校選択制」や「自由校区」を採用する自治体が全国に広がっている。
村上 健吉 (56歳)

四小には私、子供、孫と3世代お世話になっています。高松に住んでいれば四小にてお世話になっていることを誇りに思っていました。うれしい世代を過して参りました。
各市も合併問題で悩んでいますが四小の合併は何が問題なのですか?子供の少ない事ですか?よくわかりません。育児に頑張っているお母さんの悩みを聞いてあげてください。「高い月謝」「近くに保育所がない」仕事をしていても安心して預けられる場所をもとめています。原点から見直をお願いしたい。
子供たちや地域にとって、今後の四番丁小学校は校区を自由にすればいいと思います。
山田 美砂 (62歳)

おわりに

全国的に学力低下の懸念は高まりつつあり、児童生徒の安全確保などの新たな問題も生じてきた。一方では少子化に伴う児童生徒数の減少、中心市街地の空洞化、ドーナツ化現象など地域経済社会の変化に伴い児童生徒数の地域的な不均衡が発生している。そんな状況の下、全国各地で様々な教育改革が進められている。ここ高松に於いても、耐震性に懸念のある校舎を改築しなければならないという問題に直面した今こそ、新たなステップを踏み出すチャンスではなかろうか。冒頭にも述べたように私たちはこの提言がベストなものとは全く思っていない。行政と地域住民、PTA、同窓生などの関係者が情報を共有化し一体となって考えることにより、全国的に見ても高水準にあると思われる高松の教育をさらにすばらしいものにすることができるはずである。充分な議論なくして統廃合という安易な結論を求めるのではなく、苦しくても、時間がかかっても新たな挑戦をしていく必要があるのではないだろうか。「これぞ高松」と全国に誇れるような教育システムを作り上げていくことが私たちの目標であり、次代を担う子供達に対する責務であると考える。そのためにも関係者が一体となって考える場を設置する必要がある。

参考資料1

平成16年3月6日 学校づくりについて開催した講演会「みんなの夢のふくらむ学校づくり 学校計画の潮流と課題」における配布資料。長澤先生には統廃合問題については中立の立場から講演いただきました。以下は当日配布した資料です。

子どもの成長の場となる学校づくり

長澤 悟(東洋大学工学部教授)

イギリス首相だったチャーチルに「人が建築をつくる、建築が人をつくる」という言葉がある。気持ち、活動、互いの関係等の点で、人は意識する、しないに関わらず建築・空間から大きな影響を受けている。同じイギリスの、社会のリーダー的地位に立つ人材を輩出してきたパブリックスクールで長く校長を務めた人の言葉として、「リーダーたる者は気品を備えていなければならない。気品ある人間を育てるための要件として衣食住について言えば、着るものは簡素でよい、食べるものは質素でよい、しかし空間だけは豊かでなければならない」という言葉がある。いずれも学校建築を考える時の基本に据えられるものであろう。

翻って我が国では学校施設については、教職員や教育学者等、教育関係者から教育条件として意識されることが一般に少ない。施設は与えられるもので、その姿と言えば、明治の中頃以降定型化が進んだ「四間×五間」の教室に特別教室等が足されただけのものであった。戦後の鉄筋コンクリート造校舎の標準設計は、それを貧しい空間として定着させた。意見を求められることも取り入れられることもなく建設される状況が、教職員の意識を施設に向けさせなかったということもできる。

○センチュリースクール・百年学校

その学校建築がこの二十年余りの間に大きく変わってきた。そして教育も新しい波の中にある。当初はどちらかというと建築が先行気味で、順序が逆だという批判も見られた。しかし、社会の変化とは様々な立場から考えられ、進められるものであり、それが必要とされるはずだ。建築は造られたら数十年は使い続けられる。そして児童生徒の成長に、また教職員の教育活動に制約も与えれば、新しい可能性を生み出すことにもつながる。建築の計画・設計には先見性と、変化への柔軟性が求められるのである。

具合が悪くなったらその時には建て替えればよいという考え方が従来あったとすれば、今後はそれは許されない。まず財政的に困難であろうし、地球環境問題から見ても、建設には膨大なエネルギーを要し、壊せば大量の産業廃棄物となる。一旦造るからには長く使い続けられるようにすることが不可欠だ。何より、学校とはそこで成長した子どもたち、地域の人々にとって思い出の集積した存在として、住宅と双璧をなすものである。機能的に古びたからといって簡単に建て替えてよい性質のものではない。

余談だが、以前からどうしても一度訪れたいと思い、最近、念願を果たした場所がある。それはオランダのライデン大学の一角にある、教室半分位の広さの部屋である。そこは壁全面が落書きで埋まっている。この大学で学んだ人間は、一度だけここに落書きを残すことができる。先のチャーチルやアインシュタイン等の名前も見える。ここに落書きを残すことがこの大学で学んだ証として意識され、誇りとなっているという。場とはそのような力を持つものなのである。

校舎改築の計画に関わった時に、話し合いの中で必ず意見を聞くようにしているのが、思い出の場所、学校で残したいものについてである。旧木造校舎の床板、階段の親柱や手すり等、新しい校舎にさりげなく取り入れたものが、それを見つけた卒業生を感激させる場面を見てきた。これらは個人的な思い出を越えて、そこで学び、育ち、関わった人々の心をつなぐ。学校とは単に今の教育の場としての存在にとどまらず、お父さんも、おじいさんもここで勉強した。ひいおじいさんは学校をつくったというようにして世代間を結ぶ力を持つ。これに対して、戦後の鉄筋コンクリート造校舎は平均して30年程で建て替えられてきた。一世代分の寿命しかない建物にこの役割は果たせない。

皆に愛されながら永く時間を生きる学校づくりを、センチュリースクール・百年学校と呼んで、様々な課題を統合した学校づくりの最終の目標として、話し合いに参加した人々に投げかけている。そのためにどうするかということは、まさに総合的な学習の課題である。構造、設備、機能、材料、維持管理等、全般にわたるが、最後は人の心、愛着にある。壊すか、残すかは人が決めるのだ。そしてそのような人の心は何によって作られるかと言えば、人々が参加する建設プロセスであると思う。「おらが学校」という言葉は「おらが造った学校」「おらが支える学校」なのだ。明治以来、戦後しばらく経ってから学校建設の補助制度が整うまで、学校づくりは常に地域の人々の汗と苦労に支えられてきた。戦後の寿命の短い標準校舎はその関係を断ち切って生まれたものだった。学校の本来のあり方を取り戻そう。そのためには昔のように金や労力ではなく、その代わりに一番大事なもの、つまり時間を出し合おう。時間をかけて、子どもを、教育を、学校を、地域を考えながら学校をつくろう。むしろ学校づくりをそれらを考える機会として生かすことが大切だ。

○新しい教育空間

今日、ゆとりか学力かが大きな論争になっている。興味深いが、本来はどちらも大切な教育目標のはずである。限られた学校時間の中でどちらを優先するかという議論は何か虚しい気持ちもする。

ただし、学校建築に話を戻せば、実はゆとりも学力も教育空間については同じように変革を求めるものと言える。ゆとりを生かした多様な活動も、一人一人に確実に学力の定着を図るための弾力的な学習展開も、いずれも一斉画一授業とは異なるはずだし、それを前提とした固定的、画一的な教室の構成・配置で対応するには制約が大きいはずだ。そのための教育空間・学習空間が備えるべき基本的条件として、大きく次の三つをあげることができる。

一つは教職員が協力しやすい空間づくりである。教育実践に成果を挙げる多くの学校の様子を見てきて思うのは、教師が集団となった時のパワーのすごさである。学校づくりを契機として、教育について、学校のあり方について賛否両論を含めて幅広く議論することを通して、施設の完成後、学校全体が共通理解のもとに教育に取り組むようになる。そこですばらしい教育実践を展開しているのは、特別に集められた教師ではなく「普通の教師達」なのである。学校教育の変革は一人の教師ではなく、学校が組織として取り組んで実現するものだと実感している。また、学習場面だけではなく、子どもの多面的な理解や評価のためにも、複数の教職員の多様な個性・視点をもってあたることが必要とされよう。そして、そのような学校変革が従来の学校でなぜ難しかったかと言えば、教室の壁が教師の間に意識の壁を作り、弾力的な場面を許さずにきたためであると言える。

新しい教育に取り組もうとしている小学校から、まず教室と廊下のドアや窓を外してみようと計画していると相談されたことがある。学年のまとまりは確保されていたが、なにしろ廊下の幅しかないのでは間仕切りのないことの問題点ばかりが意識されるだけに終わりはしないかと心配していたところ、しばらくして大変よかったという報告を受けた。何がよかったのかと聞けば、教師の関係や意識が開かれ、子どもどうしの関係が変わった。それを通して一緒に子どもの教育にあたろうとする機運ができたということだった。この学校ではその後改造により廊下側の間仕切りを撤去し、コーナーづくりに先生方のアイデアの盛り込まれた教育空間が実現し、協同体制の下、次のステップに進んで行った。

学級王国という言葉があり、教師は閉鎖的と言われる。実際、計画の話し合いの際にもそれまでの経験から、閉じた教室に固執するような意見が出されるが、プロセスも含めよく計画された空間の中では、教師達はごく自然に協力し始める。

二つめが、多様な学習メディア、すなわちプリント類・図書・視聴覚機器・コンピュータ・インターネット情報・子どもたちの成果物・実物等が、教室の身近に用意された空間づくりである。より魅力的な授業を可能にし、一人一人の学びを支え、学習への動機付けを図るためには、これら多様なメディアが不可欠である。そして、授業の流れの中で随時利用できるように、教室まわりに用意されていることが大切である。そのような学習環境構成は、教師が協力しあう時、一層ダイナミックで新鮮なものになる。

三つめは能動的に活動できる空間づくりである。学習メディアが用意された環境はそのためにも有効であり、子どもたちに学習への動機付け、問題意識、学習課題への期待を育てることになる。しかも子どもたちはその環境を整えているのが自分たちの先生であることを知っている。先生が自分のためにしてくれていることを環境を通して感じることができる。それは先生と子どもの心を結ぶメディアでもある。

近年、中学校では新しい計画として教科教室型運営方式が注目されている。教科ごとに専用の教室を設け、生徒が移動する方式であるが、上記の趣旨に照らして言えば、教科教室、教科や関連教科のメディアを配置したオープンスペース(メディアスペース)、教材室や教科研究室等を組み合わせて教科センターを構成することが大切である。その意味で教科センター方式とも呼ばれる。教科担任制の下で教師が協力して授業展開やメディア配置ができ、生徒に教科の魅力を感じさせられるところに意義がある。この方式の検討段階において先生方から必ず出される意見として、教科指導上の有効性は分かるが、教室移動があると生徒が落ち着かないのでは、授業に遅れてくるのではという心配や、クラスのまとまりが崩れるという反対があがる。ところが、実際には教室の移動は評価される場合が多い。つまり、自ら教室に出向くという行動を通して気持ちが切り替わり、教室で先生が来るのを待っている受け身の姿勢とは違うというのである。これらの学校ではノーチャイム制がとられることが多いが、生徒が授業に遅れて来ることもない。もちろんその前提として、各教科の教室やオープンスペースに教科の環境が用意されていることが不可欠である。それがなければ、なぜ自分達が移動しなければならないのか、生徒達にはその意味が見出せない。変化のある移動空間のデザインや学校規模に応じた動線計画等が大切なことも付け加えておきたい。

○ストレスのない学校づくり

学校は、子ども達が授業を受けるだけでなく、様々な気持ちを持って過ごす生活の場でもある。学校ではうれしいこともあれば、気がふさぐ時もあるだろう。一人でいたい時もあれば、友達となぐさめあうことも、大勢で楽しくおしゃべりしたいこともある。その気持ちや行為を子ども達の目線から思いやることから新しい学校空間が見えてくる。従来の学校には教室しか居場所がなかった。人間関係等で教室の中に入りづらくなるとこれは不登校の原因との一つとなろう。学校はその時々にあった自分の居場所が見つけられ、選べるような空間づくりをしたい。例えば学校全体を移動するながで各人が生活を組み立てることになる教科センター方式の学校では、不登校が減ったという報告もある。空間が開かれ、のびやかで、明るいことは、子ども達がストレスなく学校生活を送る上で不可欠の条件と言える。

一方、安心感の持てる、まわりの目から外れてほっとできる居場所も大切だ。オープンスペースの一角に、穴蔵のような狭い場所(デン)を設けたところ、子ども達に大人気の場所となった。まわりが活発に遊んでいる時、中をのぞくと二、三人で静かにおしゃべりしていたり、逆にこの中だけはキャッキャと遊んでいたりする。デンはそれを目にした大人たちも興味を持つ。イギリスの小学校には教室の一角に3m角程の小さなコーナーがある。床に座れば全員が集まることができ、先生も話したり、本を読んだりするのに小さな声で十分である。そして小さな声で話す先生を子ども達はやさしいと感じるのである。

学校を生活という視点から見れば、食事、水飲み、トイレ、更衣等、様々な生活行為を本来のあり方からしっかりとらえ直して空間づくりに反映することが大切である。学校トイレが今大きな課題となっている。

先に保健室登校にふれた。何とか学校に来る子ども達は大人としゃべりたいという気持ちを持っている。しかしそれは自分を管理する立場の教師ではだめだという時に、悩みを受け止めてくれる養護教諭がいる場所が保健室ということになる。実際、図書室に司書がいる学校では図書室登校があるし、事務室登校もある。規模の大きな学校で数が多くなると保健室では足りず、かといってどこかの教室に集めるわけにもいかないので、倉庫や教材室等、様々な場所があてられ、教室外登校ということになり、貧しい環境に置かれている場合も少なくない。身体の障害に対するバリアフリーに対する意識はずいぶん定着してきたが、心の面のバリアフリーはまだこれからと言える。学校空間全体の見直しとともに、地域の大人の関わりも期待される。

子どもを大事にする学校づくりで大切なことは何かと話し合っていた時、ある先生から「教師がストレスない状態でいられることが大切」と言われて、一瞬後に皆で納得したことがある。余裕のない学校の空間・時間の中で先生もストレスを感じている。それが子どもに跳ね返らないようにしたい。職員室の一角にラウンジやサロンを設ければ、リフレッシュに有効なだけでなく、机に向かっている時や会議の時とはまた別の情報交換にも有効であろう。体調のすぐれない時に横になれる場所一つない学校は問題だろう。

○地域に開かれ、地域と連携する学校

学校週五日制が論議の的となっている。本来それは子どもを育てることを学校だけのこととせず、家庭と地域が連携して担っていこうということだととらえられる。今はそれを受け止める場や人的環境が整うまでの過渡期の議論と言えばよいのだろうか。地域の空間や人材を生かし、人や自然との交流、体験のプログラムを用意して、学校の枠の中では困難な優れた試みが現れていることには期待できる。

学校と地域との関係については、学校施設を地域の活動や生涯学習の場として活用する学校開放から、社会教育施設さらには福祉施設との複合化やそれへの余裕教室の転用等が広く見られるようになってきた。まちづくり・地域づくりの目標は、生きがいをもって安心して住み続けられる居住環境整備である。学校はその主要な一部ととらえられ、その施設や存在を豊かな地域づくりに活かし、有機的に関連づけることは当然の課題とも言える。その際大切なことは、施設を別個に整備するのでは期待しにくい価値を目標に据えることである。単独では持てない施設を利用できるようにすることと同時に、交流がキーワードとなろう。子ども達にとっては、幅広く大人とふれあい、また高齢者や障害のある人との関わりを持つ機会として生かす発想が求められる。また、地域の人材を招き入れることは、地域のよさを伝え、誇りを持てる教育にも欠かせない。こういう機会を通して地域の人々が学校や子どもに関心を深めることが、すなわち地域の教育力につながると言えよう。保護者や地域の人々を日常的に迎え入れる場、学校をサポートする拠点を学校の一角に設けることも学校施設計画の課題と言える。近年は、放課後や休日の子どもの居場所として学校施設を生かすことが広がりを見せているが、遊び指導や安全管理にも地域の人々の協力は不可欠となる。

開かれた学校という言い方が改めて問題とされたのが大阪の池田小学校での痛ましい事件だった。開かれた学校とは、安全について何の用意もなく、意識も薄いまま学校空間を開くことを意味するものではないことは新たに確認する必要がある。安全で健康な学校環境づくりは学校施設計画のすべての基本になることは言うまでもない。知恵と工夫が求められるのは、学校づくりの目標を見据えながらその確保を図るところにある。常時の学校と地域との関係はそのベースとなるものであろう。

○理念をもって、思いをこめて

多様な教育活動の場として昭和50年代から設置されるようになったオープンスペースは、昭和59年度に補助制度ができてから急速に数を増し、今では6千校程に達しているが、しばらく前からその定型化が問題とされるようになってきた。補助があるからというだけで、議論もなされない中で造られた空間はねらい通りには生かされない。うまく使われていない例がまわりにあることが、逆に疑問を生じさせている状況も見受けられる。なぜ変えなければいけないのかと。

学校づくりに必要なのは、先ず、誰のための学校づくりなのか、「学校とは」という問いを皆が持ち、それぞれの立場から考えることである。問われるのは、子ども観、教育観、学校観である。一人ひとりの子どもが学ぶ楽しさ、生きる喜びを実感でき、自分に自信を持ち、誇りの持てる学校づくりを、それぞれの条件に応じてそれぞれの言葉で理念・目標として立てることが大切である。

もう一つは、それを作り、共有する場として学校の教職員、保護者、地域の人々、子ども達が参加しながら思いを込めるプロセスが不可欠だということである。学校づくりへの参加の特長は、まちづくりや他の施設づくりの場合と違って、参加した人々が、最初から誰でも沢山のことがしゃべれることである。全員が9年、12年という経験があり、「誰でもプロ」なのだし、自分の人生に裏打ちされた教育論は誰でも持っている。しかも数年後には成果となって現れる。「おらが造った学校」はまさに地域の人々の元気の素となり、そこから学校教育、子育てのサポーターが生まれてくる。

もちろん時間、労力はかかる。しかし、それが百年学校への唯一の道なのである。

(学校保健研究 第44巻 第6号2003.2.20)

参考資料2

四番丁小学校育友会(PTA)は、高松市中心部小中学校適正配置等審議会の中間報告を受けて、平成15年9月16日臨時総会を開催し以下の意見書を提出しました。

四番丁小学校育友会意見書(平成15年9月24日提出分)

1 統廃合が本当に最善策でしょうか。

この中間報告の前提とされている高松市校舎等改築検討懇談会ならびに高松市校舎等改築計画基本構想では、耐震性に懸念のある校舎の改築に際しては施設の複合化、校区の見直しといった内容が盛り込まれているにもかかわらず、今回の中間報告では困難であるとしてほとんど検討されていません。ホームページに公開されている審議会議事録にもそのような発言がなされている事実が記載されていますが、何故困難なのか、何故検討されなかったのか不明確です。たとえばもし仮に今回の中間報告通り日新、二番丁、四番丁の統合がなされたとすると、この新しい小学校へ通う子どもたちは中学校進学時点において二つの中学校に分けられることになりますが、このことひとつを取ってみても何故なのかよくわかりません。耐震性に懸念のある校舎の改築は避けられない以上、厳しい財政事情の中で経済合理性が教育的見地に優先した結果、統廃合という発想が出てきたのではないのでしょうか。またもし資金が潤沢にあったとしても統廃合を考えるのでしょうか。

2 都市中心部のまちづくり、学校づくりはどうあるべきなのでしょうか。

平成11年3月に策定、平成13年12月に変更された高松市中心市街地活性化基本計画では、「住みやすい都心居住の再整備」と「まちなか居住の促進」が推進目標としてあげられています。しかし学校を統廃合するということは、子供たちを持つ家庭にとって中心部に住みにくくなることを意味し、ひいては都市中心部の空洞化に拍車をかけることにもつながります。縦割り行政ということがよく言われますが、同じ高松市内部でこの問題についての協議はなされたのでしょうか。自然推計では中心部児童数は微減とされていますが、地価の下落、企業の有利子負債圧縮を目的とした資産(土地)売却に伴って、いわゆる都心回帰の現象は大都市から地方都市にまで広がりつつあり、ここ高松においてもその傾向は見て取れます。今や、徐々にではあっても都市中心部人口の社会的増加が期待できる社会経済情勢になっています。平成15年度を境として高松市全体の児童数は増加に転じ、情勢によっては中心部の児童数も増加する可能性もあります。現在、四番丁、二番丁、日新の3 校を統合すれば800名を超え、社会的増加を考慮に入れない今後数年間の予想生徒数も微減であり、もし市の「まちなか居住の促進」が推進され中心部の人口が増加した場合は、決して適正規模とはいえない状態にはならないでしょうか。

学校は教育の場のみならず、地域住民の活動の場でもあります。高松市校舎等改築計画基本構想においても、学校・家庭・地域社会の連携、生涯学習やコミュニティ活動の場としての学校の役割が述べられていますが、もし統廃合ということになれば自治会活動などコミュニティ活動にも大きな影響が及ぶと思われます。学校のあり方を考えるに当たっては「教育の場としての学校」のあり方だけではなく「地域社会の中における学校」のあり方をも考える必要があるように思います。新しい学校づくりは何も統合だけではなく自由校区や施設の複合化といった要素をもっと検討した上で地域を巻き込んでのまちづくりの一環であるべきであり、まちを大切にしたいという気持ちが学校を守ろうとする気持ちにもつながっています。四番丁小学校は、ホタル鑑賞の夕べや菊池寛まつりなど他校にはない独自の行事を通して地域社会の方々とふれあう機会も多く、地域の情報発信基地となっています。四番丁校区が町をあげて反対する大きな理由の一つはここにありますが、これらの点についての検討はなされたのでしょうか。

3 登下校時の危険性が増すのではないでしょうか。

学校を統合するということは、通学距離が長くなることを意味します。横断歩道、歩道橋などを利用することを考えると、とても直線距離で考えられるものではなく、低学年の児童にとっては通学自体がかなりの負担になることが予想されます。さらに交通事故のみならず、近年の治安の悪化に伴う通学途上の事故のリスクも増大しますが、これは保護者にとっては極めて大きな心配事です。これらの点についての検討はなされたのでしょうか。

4 学力低下の懸念が増すのではないでしょうか。

最近の日本の経済的低迷の一因は、幼い頃からの基礎学力不足による国際競争力の弱体化に起因するという説を唱える学者もいます。国家百年の計は教育にありといわれます。学校完全5日制の実施により全国的に子供たちの学力低下が懸念されていますが、絶対的な勉強時間が減少していく中で、学習効果を高めるためには学習密度を上げるしかないと思います。となると必然的に少人数教育ということになりますが、学校統合はその流れに逆行するものではないのでしょうか。(現実に四番丁小学校では少人数教育の成果が数値データとして裏付けられています。)40人学級を前提とした議論は、各地で学級崩壊の問題も報告されている現今においては、もはや将来を見据えたものではない時代遅れの議論のように思われます。

5 小規模校において生じるといわれる教育上の問題は対応できない問題なのでしょうか。

中間報告では小規模化した学校では教育上の様々な問題が生じているとされていますが、少なくとも現在四番丁小学校にかよう子供たちを持つ保護者の多くは、少人数であることによる不利益は感じていません。クラスマッチ等は他校との交流試合、連合運動会などで代用することもできます。また、一学年一クラスでは人間関係が固定化される恐れがあると書かれていますが、四番丁小学校の卒業生は社会性がないとか、大規模校の紫雲中学へ進学した子供たちが適応できないといった話はあまり聞いたことがありません。むしろ四番丁小学校は少人数ゆえに、子どもたちの間に障害児学級も含めた形での学年の枠を超えた交流ができあがっています。四番丁小学校にはここ何年来も障害児学級があり、小さい頃から障害児と共に過ごしています。この経験があれば、社会に出てからも障害者と自然に接する大人へと成長できると思います。中学校で障害児と一緒になった時、“四番丁出身の子どもは(障害児に)手を貸す一線をわきまえていて、それが自然にできる”と褒めてもらったという話を聞いたことがあります。 一昨年、市制施行111周年記念イベントとして当時の四番丁小学校5年1組が企画した-市民会館これまでこれからまつり-が市民会館において盛大に開催されました。その時友情出演として参加していた近隣の大規模小学校の子供たちの中からは、四番丁小学校の児童の一人一人が役割を持ち、いきいきと発表していたのをまのあたりにし、このような発表を自分たちの学校でもできないかという意見もでていました。またいじめがあってもクラス替えができないとありますが、いじめの問題はクラス替えなどで対処するのではなく、その発生を防ぐことの方が重要ではないのでしょうか。小規模校には小規模校にしかないよさがあり、統合によってそれらは失われてしまいます。障害児(障害者) あるいは高齢者とふれあえる小学校(複合施設)など、“これからの新しい小学校を提案する”という形での存続は計れないのでしょうか。そのことを今一度ご検討いただけないでしょうか。

6 110余年の伝統と誇りを断ち切る以外に方法はないのでしょうか。

学校にはそれぞれ伝統というものがあります。四番丁小学校の校舎敷地は、かつて地元のご協力の元に確保されたものであり、戦災により廃校になりかかった時期がありましたが、この時も地元の方々のご努力によって維持されました。そしてまた110余年の歴史の中で、三木武吉、菊池寛など郷土の誇りともいえる偉大な先輩を輩出していますが、その伝統は今の子ども達に脈々と受け継がれています。たとえば毎年3月に大先輩である菊池寛をたたえる菊池寛まつりを行っています。

このまつりで子供たちは、

1年生は、よつばの森のなかまたち(四番丁校区の自然とふれあう) 2年生は、ゆめのよつば町(四番丁校区の人々と歴史にふれあう) 3年生は、校庭で飼育しているホタルを通して自然の大切さをまなぶ 4年生は、三盆糖・保多織・後藤塗りを通して讃岐に伝わる伝統にふれる 5年生は、サンポート高松などを通してこれからの町づくりを考える 6年生は、菊池寛の作品の劇を演じることにより、郷土の文豪が残した文学に接するというテーマを持って一年間積み重ねてきた総合学習の成果を発表します。一度ご覧になっていただけないでしょうか。子供たちがどれだけ伝統を大切にすることを学び、地域とのふれあいについて考え、自分たちの町に誇りを持っているかが分かっていただけるかと思います。

卒業生の多くは四番丁小学校に学んだことを誇りに思っており、地域社会の皆様方もこの学校に対し格別の思いを持たれていることは先日の説明会でおわかりなられたと思います。110余年の伝統と誇りをここで断ち切ってしまうことだけが、次代を担う子どもたちのために残された唯一の方法なのでしょうか。このこともまた今一度ご検討いただけないでしょうか。

7 小規模校は関係者一人一人の力によって支えられています。

他の地域から四番丁は恵まれすぎているという批判がありますが、確かにそうかもしれません。しかしながら学校を支えるために育友会、自治会などに他の地域より負担がかかっていることも事実です。子供たちが少人数であることのメリットを享受できるのも育友会、自治会などの強力なバックアップがあってはじめて成り立っています。つまり縁の下ではそれなりの苦労をしているわけで、単純にメリットのみ享受しているわけではないということをご理解いただきたく思います。そしてまたその苦労ゆえに自分たちの学校を大切に思う心を一人一人が抱いているのではないでしょうか。

8 地元の理解と合意とは何を意味するのでしょうか。

先日の説明会では、「今後地元の理解と合意を形成して次のステップに進む」との説明がありましたが、いつ何をもって合意が形成されたとみなすのでしょうか。また明らかに合意が形成されていないと思われる状況の中で、次のステップに進むということはないのでしょうか。逆にそのような状況が続く場合には、計画の凍結あるいは白紙撤回ということもあり得るのでしょうか。

参考資料3

平成16年1月27日に開催された高松市中心部小中学校適正配置等審議会と各校PTA代表との意見交換会において、四番丁小学校育友会は以下のような発言をしました。

四番丁小学校育友会発言要旨

今、高松市が全国に誇れるものはいくつかあると思いますが、その中の一つに公的教育があるのではないかと思っています。大都市では中学受験をする子供たちが多いのですが、年が明けると出席日数が足りている子供は、学校に行かずに朝から塾に行って勉強をするそうです。都市部の人たちは公立校を今ひとつ信用していません。私学の独自の校風にあこがれて志望するということは自然なことのように思いますが、これはどう考えても明らかに異常です。今回の学校統合問題は、せっかくの高松の公的教育のレベルを押し下げることにつながらないかということを危惧しています。

学力低下の懸念については、意見書でも申し上げましたが、平成16年1月24日の朝刊に高校生の学力低下についての記事がありました。高校生の学力の低下が特に数学に見られるというのは、小中学校において習得されて いた学習内容が、だんだん押し上げられて、すべてが高校で習得しなければならなくなったということが、一つの大きな原因です。学習効果は、小規模クラス の方が期待できるということは言うまでもありません。(グラス・スミス曲線という統計データがあります。)

外国の事例としてイギリスの理科教育についてのお話しをうかがう機会があったのですが、授業はまず実験をやり次の時間に子供達が各々その疑問点を解消することにより自然に発展的な内容に踏み込んでいくという形を取っています。これは少人数でないと不可能なやり方で、最大でも25人以内で授業が行われているそうです。ちなみに全員が受けるナショナルテストは完全な論述式でした。中間報告では、高松市校舎等改築計画基本構想の40人学級の12~24学級をふまえての議論ということでしたが、このような規模において、少人数教育が果たして実現できるのでしょうか。

昨年開催された市教委との意見交換会で、「よい学校とは、近い学校であり、ひとつのクラスの人数が少ない学校である」という意見や「新しい学校は、学力を伸ばしてくれるという点を重視して考えていきたい」という意見がPTA役員の中から出ましたが、これらの意見の根底は同じように思います。私たちも講演会への参加やインターネットなどを利用してこの問題について勉強をしてきました。委員の皆様方はご存じかと思いますが、文部科学省の管轄下にある国立教育政策研究所が現場の小学校の校長先生から聞き取り調査をしたところ小学校の適正規模は一人一人の顔が見える300人くらいだという結果が出ています。これに対し、日新、二番丁、四番丁がもし統合されたとすると800人規模という大規模校になってしまいます。このような大規模校を作ろうとすることが、現在において本当に教育面から良策なのでしょうか。

文部省『児童生徒の問題行動等の実態調査』(1989)の結果を見ますと、校内暴力は対教師暴力および生徒間暴力ともに学校規模が大きくなればなるほど発生率が高くなることが報告されています。クラスが少なければクラス替えができず人間関係が固定化されるとの意見もありましたが、いじめの問題はクラス 替えで本当に解決できるのでしょうか。クラス替えができることと、校内暴力の発生率を高くすることとどちらを優先するかは、十分検討の余地があると思われます。

しかしそうはいっても学校を建て直すとなればお金のことは避けては通れない問題だと思います。学校の建設時にはその規模に応じて国から補助金が交付されると聞いていますが、「特色ある学校づくり」(ただしソフト面での交流が必要)や「新世代型学習空間」といった項目が満たされると国からの補助金が基本補助額に対して加算されると聞いております。この審議会の前身とも言える校舎等改築検討懇談会の中でも触れられている学校施設の複合化、例えば四番丁小学校ならオフィス街・商業地というその立地からして働く女性を支援する施設、すなわち保育施設との複合化などの案も考えることができるのではないでしょうか。そしてこれらをうまく組み合わせることにより国からの補助金を増額していただき市の財政負担を減らすこともできるのではないでしょうか。

これらの問題には私たちは、PTA役員としての立場のみならず地域社会の一員として、正面から取り組み勉強し考えていく必要があるように思います。審議会の委員の方々のみならず、地域社会の人たちを巻き込んで話し合い知恵を出し合えば様々な新しい学校の形が出てくるのではないでしょうか。そしてまたそうすることこそが次代を担う子供達のために私たちが果たさなくてはならない責務ではないでしょうか。性急に結論を出してしまって、次代を担う子供たちに顔向けができないようなことにならないように私たちは頑張らなくてはならないのではないでしょうか。

日本は科学立国・技術立国しか進む道はないと思いますが、近年の日本の経済的停滞の一因は、学力低下にあるという説もあります。先に述べた外国の理科教育の話などを聞くとそれもあり得るのかなと感じざるを得ません。そんな中、国レベルでは独立行政法人への移行に伴い国立大学の改革が進められています。高校でもスーパーサイエンススクール、スーパーイングリッシュスクールといったチャレンジがなされています。小学校でも四番丁小学校は理科大好きスクールに指定され活動をしています。国レベルだけでなく高松という地域レベルでも様々な試みが行われてもいいのではないでしょうか。たとえば学校規模ひとつをとってみても、その均等化を図る必要があるのでしょうか。大規模校でないとできないこと、小規模校でないとできないことというものがあるように思います。四番丁小学校で行われている「ホタルの飼育」や「漆器づくり」などの特色ある教育活動、豊かな体験活動は小規模校ゆえに効果的に展開できるものです。それぞれの学校がその特色や歴史を生かしながら、足りないところは学校間の交流により補っていく。それに施設の複合化、部分的な校区の自由化といった要素を加味していく、或いは保育所から幼稚園・小中一貫制などもっとダイナミックな検討をしてみる等、様々な可能性が考えられるのではないでしょうか。福島県三春町、広島県尾道市など全国各地で様々な試みがなされています。こういう問題に直面した時だからこそ、新しいチャレンジをする時ではないのでしょうか。みんなで知恵を絞れば、これこそ高松方式といったすばらしいシステムが作り上げられるのではないでしょうか。少なくとも高松にはそれがやれるだけの素地があると思います。

学校づくりは地域づくりでもあります。昨日の四国新聞に高松市中心部のオフィスの空室率が過去最悪であるとの記事が掲載されていました。中心市街地の再生は高松市の重要課題として位置づけられていると聞いていますが、再生をはかる中心部にとって、適正配置の問題は死活問題にもなりかねません。時間をかけて、これまで培ってきた地域の繋がりや伝統を活かしながら、其々の地域にあった学校のあり方を研究し、創り出していく事が必要ではないでしょうか。通学距離や途中の交通状況などを知っている地元の住民が話し合いの場に含まれないのは、どう考えてもおかしいと思わざるをえません。皆様方は実際に校区を歩いていただいたのでしょうか。それは現実には無理だと思いますが、そういう状況の中でこれほど重要なことが決定されるとしたならば、私たちが納得できないのは当然でしょう。児童数を増やす工夫や施設の複合化など様々な取り組みも考えながら地域、学校、行政一緒になって考えていきたいと思っています。

「関係者が納得できる話し合いの場を新たに設ける」というのも審議会の立派な一つの結論の形ではないかと思いますが、そのことを今一度ご検討いただけないでしょうか。