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四番丁小学校の歴史と伝統

東原 岩男

 ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という名句を残している。
先哲に学んで、四番丁小学校の歴史と伝統の概略を振り返る。

1. 最初に開校された高松市立小学校

(1) 四番丁尋常小学校の開校
  本校は、明治9年(1876)に開校された玉藻小学校を前身とし、その後の変遷を経て同25年(1892)4月1日に高松市立四番丁尋常小学校として慈恩寺境内に設立された。本校のほかに五番丁・(浄願寺跡)、西通町(二番丁小学校北側)、西浜(西東金比羅堂)の3分教場をもっていた。この年高松市に開校された小学校は本校と鶴屋町尋常小学校(跡地は琴電片原町駅東側)であった。
 本校の就学区域(以下校区)は、内町、西内町、西の丸町、寿町、玉藻町、丸亀町、古新町、外磨屋町、南紺屋町、南鍛冶屋町、北亀井町、南亀井町、田町、南新町、一番丁〜九番町、天神前、中新町、旅籠町、古馬場町、兵庫町、新湊町、浜の丁、西新通町の31町となっており、大変広い範囲から通学していた。
 本校の就業年限は4年、各学年とも 2学級で計8学級。分教場は1、2年のみで3学級。合計11学級。開校時の在算数は 838人であった。高松市全体の就学児童数2、960人の約3割を占めていた。
 4月4日の入学式には、来賓として赤松市長・北村市会議長・吉本学務委員等臨席、児童200余人父兄併せて400余人が出席したことが「香川新報」に報じられた。以来、本校は高松市の代表的な小学校として、教育の様子や学校行事などの諸活動が日常的に同紙に掲載され、市民に広報されて来た。
(2) 時鐘楼の建設
明治33年(1900)本校校庭に時鐘楼が建設された。藩主松平頼重が鋳させた鐘を高松市民の時鐘として利用したのだ。昭和3年(1928)市庁舎のサイレン設置まで、「四番丁のゴン」と市民に親しまれた。
 今は海浜公園に移され、新名所「報時鐘」となっている。
(3) 二番丁尋常小学校の分離独立
 明治35年(1902)二番丁尋常小学校と新瓦町尋常小学校が新設され、西通町・西浜分教場は閉鎖。糸浜分教場は二番丁尋常小学校の分教場となる。それに伴い、校区は三番丁〜十番丁、天神前、旅籠町、中新町、南亀井町、北亀井町、南鍛冶屋町、南新町、丸亀町、兵庫町、古新町、外磨屋町、南紺屋町、西新通町、古馬場町、北古馬場町、新湊町の24町と縮小されている。でも、高松市の市街地の大部分を占めていた。
 この年、西園寺公望公が、翌36年には芳川顕世文部大臣が本校を視察されている。

2. 戦災からの復興

(1) 困難な事情の中での復興
 昭和20年(1945)7月 4日、戦災のため校舎は全焼し、学校は休校状態となった。21年3月末に校長は任命されたが、授業再開の見通しはない。本校校区の大部分の児童は、二番丁国民学校で授業を受け、校地のほとんどは、農業会や県市の事務所、製材所に貸与し、廃校のうわささえ流れた。
 昭和22年(1947)1月、地域住民や卒業生の有志による「四番丁小学校復興期成同盟会」が結成された。期成同盟会は、四番丁小学校の復興を強力に当局に迫るとともに、校舎新築運動を開始し、1期工事、2期工事の落成式の総経費を負担した。この会は1期工事終了後解散「四番丁小学校同志会」と改称する。同志会は、その後校旗を寄贈するほか、奨学基金制度を設けるなどして、学校教育に貢献している。
 校地内にあった大本寺・慈恩寺・民家は、都市計画によって換地先へ移転したため、校地は拡充され3995坪となる。
 昭和23年(1948)4月、二番丁小学校の 7教室を借用して授業を再開し、二部授業を実施する。同年7月末に新校舎の第一期工事が竣工し、入校式を行った。児童数670人、学級数は16であった。二部授業の完全解消は、26年1月の第3期工事の竣工を待たなければならなかった。
(2) 昭和天皇の本校ご祝宴
 昭和25年(1950)ほ、四番丁小学校の歴史に大きな足跡を残す年となった。天皇陛下(昭和天皇)が四国地方ご巡幸に際し、本校を視察されたのである。陛下は、6年生の討議学習や県下の児童・生徒の作品を御覧になり、給食功労者として母の会代表にお言葉を賜った。母の会はその記念として、行幸記念図書館を建設して学校に寄付した。

3. 大正以降の校区の変遷と児童数の推移

 校区については、大正10年(1921)ごろまでは一定せず、学校周辺の児童数に応じてその町全部若しくは一部が変更されていたという。そのため、兄弟によって就学校が異なるという不都合が生じ、保護者の要望によって校区を決められた。
 しかし、校区は明示されたものの寄留して通学する者が多く、中には、府中村から汽車通学していた者もいたという。当時の決まりとして、1学級の定員は70人で、10人までの増減は認められていた。このため、6年生では80人にものぼり、机間巡視もできない状態になった。市当局においては、就学目当ての形式的な寄留について、ある程度黙認していたが、昭和11年(1936)度から就学目当ての単独寄留の整理に乗り出した。実際の居住地を調査して、それに基づいて就学指定をした。指導の効果は逐次現れ、本校の在簿児童数は、この年を境として、少しずつ減少していった。
 昭和23年(1948)の本校復興時における校区は、玉藻町、内町、西内町、西の丸町、寿町、兵庫町、丸亀町、南新町、古新町、外磨屋町、南紺屋町、新湊町、南鍛冶屋町、南亀井町、北亀井町、三番丁〜七番丁の20町であったが、27年香川大学附属高松小学校の学区制廃止により八番丁と田町が加わり22町となって現在に至っている。
 児童数は戦後のベビーブームの影響と、寄留入学者の増加などによって急増し、昭和33年(1958)度には最多の2435人を記録している。以後、ブームの衰えと市当局の就学指導の徹底により、児童数は漸次滅少してきた。殊に高度経済社会に移行するに連れて、市街地の人口の空洞化が急速に進み、少子高齢化時代の到来と相まって、本校の児童数は激減、創立100周年を迎えた平成4年(1992)度の在簿児童数は333人、15年度には159人となり、増員への施策が望まれる。

4. 保護者・地域の協力と援助

 本校は市内外の学校と比べて学校の施設・設備が充実していた。市当局の協力はもちろんであるが、保護者や地域の方々の物心両面にわたる協力援助の賜物とも考えられる。

(1) 同窓会と父兄会
 四番丁尋常小学校同窓会は、明治40年(1907)に創立。父兄会は翌41年に発足している。
 義務教育延長の関係で狭くなっていた校舎の拡張についての活躍が期待されたのである。このため、「父兄会細則」には、教育上必要な物品の購入や施設経営などが明記された。
 その実演として、明治43年(1910)には、運動場を西へ拡張(470坪)し、当初1536坪であった校地面積が2006坪となった。また、当時としては珍しく、運動場の回りにブランコ・回旋・鉄はしご等の遊具を設置し、講堂・裁縫室・唱歌室も建築されている。
 昭和8年(1933)には講堂の改築工事が竣工。緞帳・テーブル・引き幕・映写幕・ピアノなど至れり尽くせりの内部設備であった。特にシャンデリアは 3基あり、銅製のすばらしいもので市内では例をみないものであった。
 昭和16年(1941)になると、運動場の東367坪を拡張し、校地は2373坪となる。この際、拡張費調達のための寄付が問題となり、拡張費は父兄会が負担した。市は戦後になりこの地代を父兄に払い、これが前述の「復興期成同盟会」の資金となった。
 大正4年(1915)電話・ピアノ購入。ピアノは二千数百万円と伝えられ、当時市内には松平家が高松高等女学校に寄付した中古のピアノが1台あるだけであった。
(2) 保護者会、母の会
 昭和23年(1948)5月、保護者会が結成された。復興途上にある学校の後援団体として、経済的裏付けを持つPTAを作ったのである。同29年5月には保護者会を解消して母の会(母と教師の会)が発足した。学校給食奉仕を中核として多様な活動を実施して、学校教育を物心両面から支えた。
(3) 体育館建設準備委員会
昭和28年(1953)11月、全額地元負担による体育館が落成した。この体育館建設のため、四番丁小学校では26年5月に「体育館建設準備委員会」を結成し、27年10月までに13回会議を開き、500万円の寄付採納を条件にその建設を市議会に陳情、市財政困難の理由で保留となる。28年再度上程して可決された。この体育館は、落成式を待たず28年の四国国民体育大会においてバスケットボール会場として使用された。
(4) 復興協力金
 「復興協力会」は校舎の改築、施設や備品の充実を促進するために、経済的援助をする目的を持って、昭和29年に結成された。加入は1世帯単位とし、1ロ月額100円で申し込んだ。結局延口数は1690口、1カ月の合計金額は167、900円であった。総額の半額は一般会計として校舎の営繕や教育内容充実のために使い、残りの半額は建築資金として積み立てられた。

5. 先導的にして着実な教育実践

 本校は創立当初より香川県の名門校と目されてきた。そのため、県市当局の格別な理解により、県下のリーダーと目される校長と優れた実演を積んだ教員が配置され、保護者や地域社会の人々の絶大な協力による整った教育環境の中で、着実な教育が実践されてきた。
 それは、教育の基本である全人教育を目指し、子どもと地域に立ち、伝統と創造を重視し、平凡に徹して非凡を求めるものであった。戦後の教育についてその一端を述べる。
(1) 学校給食・健康教育の推進
 健康教育の一環として学校給食を重視し、教育方針の中心として力を入れた。昭和23年(1948)9月給食開始。学校と母の会が協力して、施設の整備と内容の充実を図る。翌年には、ユニセフ給食の実施指定校(香川県で本校のみ)となり、以降は給食モデル校として研究と実践に努める。その結果、前述のように25年天皇行幸では、代表が拝謁の栄に浴し、32年には学校給食の実施について成績優秀校として文部大臣表彰を受けた。
 健康教育については、全人的人間の育成に基盤を置き、あらゆる活動の場において、積極的・自主的に健康生活のできる人間を作ることを目標とした。学校運営機構の保健に関する中核となる保健促進委員会を設け、その下に保健委員会を置いて、組織的・横動的に教育活動が推進できるよう図った。具体的には、健康診断の結果に基づいて、体格・近視予防・寄生虫駆除・トラコーマ対策などを実施する。また、習慣形成として毎日の健康生活反省簿の記述と乾布摩擦を実施。毎週1時間の保健学習を行った。こうした積み上げの結果、昭和28年(1953)健康優良学校準日本一、34年健康優良学校日本一の栄誉に輝いた。
(2) 障害児教育の推進
 身体虚弱児を対象とした養護学級は昭和30年(1955)に開設し、漸次に学級増を図る。
肢体不自由学級は昭和32年(1957)9月に開設。昭和34年(1959)2月には県小学校長会主催の特殊教育研究会を、12月には四国四県特殊教育研究会を開催。養護学級の公開授業と研究協議を行った。
 難聴学級は昭和43年(1968)4月に設置。四国で初めて。翌年1学級を増設する。45年には言語障害学級を県下で始めて設置する。特に、難聴・言語障害学級の担任は、県立盲・聾学校との連携を密にし、県内に設置された学校との共同研究や支援活動を行って来た。
(3) 科学教育の推進
 昭和30年代後半から、校内で理科主任を中一心にした自作教具による教材開発が盛んに行われた。どの単元もグループ実験ができるだけの自作教具や標本などの資料も多く整えられた。低・中・高学年それぞれに理科準備室があり、理科工作室も設置されていた。昭和42、43年度には、県教育委員会から科学教育の研究指定を受け、科学的な見方・考え方を育てる実践的研究を進めた。その結果、昭和43年創意工夫育成功労学校として科学技術庁長官賞受賞。42、61年には科学教育優秀校としてソニー理科教育振興資金を受けた。

6. 偉大なる先輩の顕彰

 四番丁小学校の卒業生で、その功績が顕著な方は大勢いるが、その一部を紹介する。
 政治家のうち、三木武吉は、保守合同を目指し日本民主党と自由党を合同させ、自由民主党最高顧問となる。政界の影の実力者として名を馳せた。
 成田知巳は、社会党公認で12回連続当選し、昭和37年(1963)党本部の書記長となり構造改革論の旗手として鳴らした。43年委員長となり名声が高かった。
 文学では、十返肇は文芸評論家といわれ、数多くの評論集のほか、小説「最初の季節」を執筆。
 向田邦子は父の転勤に伴って来高し、四番丁小学校を卒業した直木賞作家。テレビ脚本では「寺内貫太郎一家」など、小説では「父の詫び状」など多数ある。
 菊池寛氏は「屋上の狂人」などの戯曲や「恩讐の彼方に」などの歴史小説、「真珠婦人」などの通俗小説を執筆。雑誌「文芸春秋」の創刊や文芸協会の設立に尽力し、芥川・直木両賞を創設する。文壇の大御所と呼ばれた。その偉業を穎彰するため、中央公園には、銅像、生家跡には顕彰稗、「菊池寛通り」の道添えには「父帰る」の一場面の銅像とその一節を彫り込んだ文学碑が建てられている。また、市立図書館内に菊池寛記念館が設けられ、一般人・小中学生らを対象とする香川菊池寛箕・ジュニア菊池寛も設けられた。
 本校においては、前記5人の写真を玄関に掲示して顕彰するほか、昭和56年度(1981)からは、菊池寛賞、十返肇賞、向田邦子賞を設け、作文・小説・脚本の作品を募集して表彰する。また、昭和53年(1978)から菊池寛の忌日に当たる 3月6日前後に「菊池寛祭り」を開催、業績の紹介や作品の劇などを発表。児童代表は銅像の清掃を行う。
 寛は母校に対する情が厚く、昭和15年(1940)児童に講演するため来校された折、運動場拡張費として1、000円の寄付を申し出、それが翌16年実施への大きな弾みとなった。
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